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情報バイアスというコロナ側の援軍

加藤 豊 神父

 

 最近は新型コロナウィルスばかりが、どうしても話題になりますが、それは仕方のないことでしょうね。ただ、そろそろ熱中症のことだって心配になる季節ですよね。熱中症だって毎年死者が出でいるはずです。

 

 今はいつもと違う社会状況にあって、その違いの主たる原因である新型コロナウィルスが、何をおいても関心事となるわけですが、これまでにもウィルスはいましたし、これからもいます。コロナの仲間にも分類されるSARSやMARSもまた、未だに妥当なワクチンが開発されていないことが知られています。しかし、SARS、MARSはもう話題にされていない。話題にされていないだけで新型コロナウィルス以外の感染者は、SARSであれMARSであれ、この時点でもいるはずなのです。今回の新型コロナの場合は確かに恐ろしい。桁外れな死者の数からして当然、緊張は高まります。

 

 それでもなお、報道は正確で公平な情報を流さなければならないはずですが、新型コロナにしか視点が行かず、これまでのその他の脅威は既に「克服された」かのように全く触れようとしません。もっともっと命に関わる様々な病気が今もなお、わたしたちを取り巻いているとは思はないのでしょうか。そうだとすると、きっと現代のメディアの役割は「流行を追いかける」という愚かな報道姿勢に開き直っている、ということになります。叩くべき問題は叩かず、わざわざ叩く必要もない問題を叩きます。だから今回も常軌を逸した情報バイアスを撒き散らかして、それを撒いていた側には責任などないかのような態度です。

 

 感染者は本来、被害者です。好んで感染する人などいるはっずもない。それにも関わらず、今はまるで「犯罪の容疑者」のように扱われ、普段は「人権」とか「知る権利」と声高に叫んで社会正義を自負する者たちを賢い人はもう信用していません。クラスター対策は、クラスター「取り締まり」に変質しています。

 

 そして気になるのが、沢山の回復患者に関する報道の少なさです。だから人によっては「感染者」即「死者」という極端な捉え方までしておられます。こうした事例に対して、新聞やTVショーは年寄りの理解力の無さが問題なのであって、自分たちには責任はないのだと、そういう姿勢が透かし読み出来てしまいます。わたしは彼らの赤い血の本当の色を疑わざるを得ません。ニュース番組が人心を惑わせるなら、そんなニュースは見たくないし、そんな論調の新聞なら購読する意味はなくなります。

 

 これからもウィルスはいます。こちらが気をつけていれば共存は条件次第で出来るでしょう。その際、大事なことは軽率に考えないことで、ときには自分のわがままや、自分の思い込みが、自分の命を最も脅かすものでもある、ということです。

 

 これは信仰生活にもいえることです。わたしたちは救われたいから自分の信仰を大事にするはずなのですが、その自分の信仰が、自分のわがままや、自分の思い込みによって、かえって自分の幸を自分で遠ざけている、という愚かなことを進んでやってしまうことがあります。更に最悪なのはそれを他人のせいにしてしまうことです。

 

 報道関係者はいざとなったら泥を被る覚悟をしてほしい。彼らはいつも主体的な姿を見せず、「我々に実態はない」とばかりに他人のせいです。人から人へ、無差別に「視聴率稼ぎの情報」という害毒を撒き散らし新聞によっては社説はまるで「SF近未来小説」みたいです。それはファクトを求める人からすれば毒です。受け取る側は防御も出来ず、手立てがない。これって新型コロナウィルスと同じではないでしょうか。つまり彼らは「ウィルスクラスター」の何倍も害を及ぼす「情報クラスター」です(もちろん皆が皆そうだというわけではないですよ)。その自覚は全くありません(あるなら情報流通業界トップになれたでしょう)。

 

 わたしの見る限り、コロナ情報を伝えるマスコミは、そこに秘めた意図をもう金輪際捨て切って、純度の高い(偏らない)情報だけを伝えてくれることを希望します。わたしたち庶民は、コロナの脅威とコロナの情報バイアスとの両方を前に疲労困憊して生きています。一番大変な思いをしているのはおそらく医療関係者でしょう。闇の中で暗躍するコロナとマスコミとの共犯関係はいつまで続くのか。新型コロナウィルスと一番仲がいいのは、実はマスコミなのでは。