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語ることと聞くことと

加藤 豊 神父

 

 「信者」とい概念には全てのカトリック教会人が当てはまります。それゆえ教皇様も「信者」の一人なのです。これまで小金井の信徒総会は「信徒大会」と呼ばれていましたが、上記を理由とし、次回から「信者総会」と改めることになりました。「信徒」も「司祭」も(また場合によっては洗礼志願者も)参加するので、「信者」の総会という意味で、このほうが妥当と思いました。

 

 アウグスティヌスの有名な言葉があって、神学生たちは多分それをよく聴かされるのではないかと思われます。「Pro Vobis Episcopatus Vobis cum christianus」だったでしょうか。これは「あなたがたの前でわたしは司教(職)であり、あなたがたと共にわたしはキリスト者(信者)である」という意味です。

 

 半病人のわたしは定期的に診察に行くわけですが、先日、病院で信者医師の先生とお会いしました。ところが、先生もまた、みずからの診察に来られていたのです。午前中は診察で、午後はご自分の担当のお仕事があるとのこと、「診察を受けるとき」には私服、「診察をするとき」には白衣です。

 

 どんなお気持ちかなあ、と察するに、多分、神父がゲストの司祭に頼んだミサに、会衆の一人としてミサに参加するときのそれだろうか、とか、他の神父に、告解を聞いてもらったりするときのそれに近いものかなと、甚だ勝手に想像しておりました。わたしはよくロザリオや十字架を新たに買うと、他の神父さんに祝福していただいたりします。また、告解を聞くときはストラをしますが、告解を聞いてもらうときにはストラはしません(当たり前ですが)。

 

 今から何年も前のこと、かつてある地域の工場の定期検診をなさっていたお医者さんはその頃はまだ若く、忙しい工場労働の現場も知っておられた方だったのですが、できるだけしっかりした食事を摂るようおっしゃってはいたもののお忙しいときは流石にご自身もカップ麺で済ませざるを得ないことがあったようです。

 

 一見矛盾したことのように見えますが、見る側と、見てもらう側、聞く側と、聞いてもらう側、これが同一人物となってしまうのは、医師も司祭も人間であることに変わりがないという、当たり前といえばあまりに当たり前な現実であり、それでいてなかなか気づきにくい現実ともいえるでしょう。

 

 ところで、その現実とはちょっと違うかもしれませんが、ここでわたしたちは一つの大事なことを思い浮かべることができます。

 

 それは「祈りは一方通行ではない」ということなのです。神様と人間が役割を交代することはないでしょうけれど、わたしたちの祈りにはいわば「受動」「能動」の両面が必要なのです。

 

 主は、いうまでもなく、わたしたちの嘆きを聞いてくださるかたですが、しかし同時にわたしたちも主の呼びかけを聴く用意がなければ、なかなか充実した祈りにはならないのではないでしょうか。わたしたちは神の御前で、「語る者」である一方で「聞く者」でもあるということを決して忘れてはならないのです。