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キリストを囲む「繋がり」

加藤 豊 神父

 

 「わたしたちの社会はもうもとには戻れないのか」、と思えてしまうほど、「これからの生活スタイル」がいたるところで模索されています。教会も同じことです。今年の「灰のの水曜日」以前の状態、即ち「普通にいつも通りミサが捧げられていたあの日」はもうずっと昔のことのように感じられ、この先、いつまで待ち続ければあの日に帰れるのだろうか、と皆が望んでいます。キリストによって呼び集められた人の集いが教会的な礼拝行為の必須要素なのだからその意味で、今の状態は「非本来的」であるといえること、それは否定できません。

 

 しかし、ただ「同じ空間に身を置く」ことだけでもって、それが直ちにキリストと共に生きる「人の集い」と呼ばれる内容を伴っているかどうかは疑わしいと、わたしには思われるのです。

 

 同じ目的を持って、心一つに、同じ思いで一斉に祈ること、そういう教会共同体特有の拝し方の中心に添えられねばならないのは、いうまでもなく常に「主の現存」です。これと無関係に集まったところで、そんな集まりはわざわざ教会でなくてもいい類の「人の集い」です。

 

 いまや「同じ空間に身を置く」ことさえ困難な現実を前にして、それでもわたしたちはようやくミサを捧げられるようになりました。主がそこにおられ、共同の祈りがそこにあるなら、たとえ互いの距離が一定に保たれているとしても、無意味になんとなく集まっている様子と比較してしっかりと「人の集い」になっているというのは何とも皮肉なことです。ただ集まっているのではない「集い」です。むしろ人と人との間にはもとより距離はあってしかるべきでしょう。なぜなら「共依存」と「共感」とは全く違うものだからです。両者は似て非なるものといえるでしょう。

 

 そこで求められるのは、もはや「同じ空間に身を置く」ということだけではありません。離れていても人と人とが確実に同じ価値観で結ばれていることを互いに自覚できる「繋がり」です。

 

 同じミサに同じ参加者が集まろうと、同じ意向で同じ祈願が唱えられようと、驚くほどに「繋がり」が全く感じられないこともあります。そんな「通常のミサ」など、わたしにとっては「取り戻すに値しない」ものです。

 

 わたしたちが再び「通常のミサ」を行えるときが、やがて来ることでしょう。しかし、悲観的なことをいうと、残念ながら、いま経験しているような苦渋が教訓として生かされるのかどうなのか、というと、おそらく生かされないであろうと推察できてしまうのです。

 

 皆さんにとって「いいミサ」とはどういうミサなのでしょうか。少なくとも「同じ空間に身を置く」ことで、それが実現するわけではありませんよね。「いいミサ」とは、主がわたしたち教会に求めておられるところのみ旨の表出。いわば「繋がり」が保たれている「集い」によって挙行される祭儀ではないでしょうか。

 

 そこで捧げられる祈りの力強さは、体験してみなければ解らず、解ろうとしなければ見えず、見ようとしなければ決して感じ取れない「秘められた現実」なのです。