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店長が交代するとき

加藤 豊 神父

 

 最近は喫茶店も少なくなりました。新聞を読みながらモーニングを食べる場は、ファミレスに変わられてしまった感じです。町中の人がそう望んだのかといえば、そうではないでしょう。これは商店街の売れ行きが巨大なショッピングモールに奪われてしまったのと類似します。もちろん喫茶店も商店街もまだまだ頑張っているところでは頑張っています。

 

 教会(この場合はおもに小教区)も同じですよね。都会の新興宗教の団体は現代化されたチェーン店形式で拠点を充実させていきますが、カトリック教会は、そういう合理化一辺倒の動きを伝統宗教の立場から、一過性のものとして危険視してもいいくらいなのですが、むしろチェーン店形式に成りたくても成れない、といったほうが正確でしょうね。つまり、そうなるとたちまち「お客さん」と「店員さん」に分かれてしまうので、そうすると信仰生活にまでそういう意識が忍び込んでしまうから、なるべくなら、それを避けたいわけです。

 

 教会の一人一人は大事な成員なのであり、神学的な表現でいうところの「キリストの神秘体」を一人一人が構成している、ということができます。だからキリスト者は教会にサービスだけを求めてやってくる消費者などでは決してない。その意味では、所属教会というのは「馴染みの」「行きつけの」喫茶店に似ており、ファミレスになってしまうと不味いところがあります。そこに集まるのは、単なるお客というよりお馴染みの皆さんなので、利用者である前に仲間なのです。

 

 現場では司祭だけが法人職員であることがほとんどで、パートで教区に雇われている人は個々の現場にはほとんどいないので、これはマスターだけが茶店の店主であるのと似ています。また、他方、集まる人は利用者というより、仲間です。店主が入れたコーヒーを飲み「いつもの味だ」と安心してくれるのです。しかし、オーナーの都合で、時々、店長が交代します。そうすると、コーヒーの味が微妙に変わってしまう。「微妙に」ならいいが、「大きく」変わることもありますよね。すると仲間たちは違和感を感じます。「あれ、いつもの味とは違う」と。

 

 そもそも、こんなことはファミレスでは起きません。行きつけのファミレスの店長が交代しても利用者には何の影響もない。それに、他方、集まるのは仲間たちというわけではなくて、徹頭徹尾利用者です。ファミレスの場合、クレーマーには平謝りだが、喫茶店の店長は「うちの店が気に入らなきゃ帰ってくれよ」といえてしまう。客はいう「店じゃない。あんたが気に入らんのだ」。これって小教区でのトラブルとなんとなく似ているような気がします。

 

 でも店はオーナーのもので、小教区は教会(広い意味での)のものですから、「キリがないやり取り」を賢い人たちは望みません。でも、どちらの気持ちもわかります。なぜならマスターはただコーヒーを入れ、モーニングを出していればいいのかというと、それ以上に仲間たちは、世間話や身の上話をしながらそれを飲み食べるのですから、集まる人たちにとってその店は単なる飲食の場ではなく、ホッとする安らぎの場です。しかも仲間たちは、マスターとだけ話し、付き合うわけではありません。お互いに「今日は早いね」などと声を掛け合います。

 

 司祭もまたミサは大事な務めだからそれに傾倒しますが、ミサだけしていればいいのかというと、そうもいかないし、それだと仲間たちとゆっくり関われないことにもなってしまいます。来る人たちとの世間話や身の上話がミサを一層いいものにします。コーヒーやモーニングに加え、マスターとの会話がその店の良さとなることに似ています。わたしもいくつかの店で店長に就任しました(つまり主任司祭をしました)。

 

 「店長が誰に変わっても俺の目的はこの店さ、あんたに興味はない」といわれることもあります。それは寂しくはあるが、実は頼もしくもあります。そういう変化に影響されないほど、共同体が堅固だ、という意味では頼もしいのです。けれども、逆に、同じ言なのに動機が別だと逆に不味いなと思うほど頼りありません。「影響されない」どころか、それ以前に認識がそこまで及んでいないことがあったりするからです。即ち、喫茶店をファミレスのように思っていたり、チェーン店なのに本店のマネージャーにも交代した店長にも興味がなかったり、という場合は、大概「店長変わったの?だからなに?」という反応もあり得るからです。似て非なるものというか、ベクトルが正反対というか、両者はかなり異なります。

 

 「ここは俺の憩いの場であるゆえに、俺はここを守る」というのと、「ここは俺の憩いの場だが、そうじゃなくなったら違う店に行くさ」というのでは、かなりの意識の差でありましょう。前者には「憩いの場を新店長の勝手にはさせないぞ」という気概を感じることができますが、後者は、そもそもマスターとの世間話も身の上話もなくていい、だから店長の交代はどうでもいい、それにお客様が神様だろう、喫茶店だろうがファミレスだろうが、どうでもいい、だから仲間もいらない、という感じの消費社会の利用者をイメージできてしまいますよね。

 

 でも、コーヒーの味が変わっても気にならないとなると、インスタントで「ボられ」てしまうことにもなります。それはかわいそうなことだけど・・・。