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マニュアル(取扱説明書)絶対の指向性について

加藤 豊 神父

 

 現代は「マニュアル化社会」といわれます。正確には「マニュアル化」したほうが効率的だと思い込まれている社会だということができます。それは一面正しいことですから、ここでは、それじたいを批判しているわけでは決してないことをまずご理解いただいた上で、これからお話していきたいと思います。

 

 「マニュアル化」できない(あるいは、し辛い)分野に関してまでそうなってしまうことが危惧される、ということなのです。例えば「人の心」と向き合うような仕事をしている人であれば、そもそも「人の心」を前にしてマニュアルで対処しなければならないのは、おもに接客業のような場合、この場合は相手は「お客様」ですから、「接客マニュアル」であるなら、それは特に問題ではありません。

 

 しかし、相手が何か深刻な悩みを抱えて相談にくるような場合はその相手を「接客マニュアル」で対処してしまっていいのでしょうか。しかもそういうケースは一人一人の「相談内容」が違ってくるため、画一的で一貫した答えなどありません。したがって、そこでの「マニュアル」がもしあるとすれば、いわゆる「取扱説明書」のような内容ではあり得ず、むしろ「心構え」をしっかり定める内容となるはずです。

 

 イメージの上でも、自分が「マニュアル」によって扱われていると考えてみるだけで、冷たく扱われている印象をご想像いただけると思います。もし、その手のガイドラインが作成されるなら、それはもう「マニュアル」の範囲ではなく、かなりの準備と注意が前提となる論文のような形式になるのではないかと思います。「人の気持ちも知らないくせに」といった感触を対象となる相手に与えてしまっては相談者は心を開くことができません。

 

 借りに「人格マニュアル」という直接的な主題を全面に扱った小書があるとすれば、およそそのようなものは社会的にも大問題となるはずです。なぜなら、それはまるで「本書は人間取扱説明書です」といっているようなもので、それって人格無視にさえ繋がる恐ろしいものですよね。しかし、現代人は大概「一億総マニュアル化」という「「マニュアル神話」を信じて止みません。

 

 もちろん、「マニュアル化したほうがいい分野」が現代社会には沢山あります。ただし、これもちょっと考えればわかりますが、「沢山ある」からこそ多様な視点が必要だという意味で、そのことじたいが「答えは一つではない」という現象を明らかに示しているはずなのに、こうなのです。だから直言をお許しいただけるなら「論理無視」「自己矛盾」となってしまいます。それゆえ聞く側は稚拙な「マニュアル化論」の論旨に混乱してしまうわけです。塾考に達していない際にも、やはり「一億総マニュアル化」こそ、正しいことだ、という発想、これが不味い。

 

 さて、イエスの時代、人々はローマの圧政と、当時の宗教指導者との両側から「追い込まれた生活」を強いられていた人たちが多くいたその一方で、「答えは一つだ」という硬直した考えの知識人たちがいて、それがいわば社会常識化してしまったような閉塞状態に陥っていた様子が伺えます。しかし、そもそも「律法」は「マニュアル」でしょうか。「あまり一般的でないと誰もが思うかりそめの常識」に過ぎないものが、真の伝統的慣習に、果たしてとって代われるでしょうか。

 実は、イエスは彼らのこうした盲点を突きます。「自分の目の前のものだけが現実だという認識」がいかに視界の狭い理解なのかという経験をわたしたちは日常生活からも学べるはずです。だから地球が自転していることをその目で確認してはいなくても実証によって知っています(身体的には誰にだって地球は平らに見えます)。これは「見てはいない現実」なのです。

 

 いつのまにか「一つの方法」が「すべてに通用する」と錯覚してしまうから、やはり視界の狭い理解となってしまうでしょう。そして危惧すべきは、その「一つの方法」を無理強いしてしまった結果、傷つく人が出てしまい、一度そうなると「誰もが望まない悲しい出来事」も起きてしまいかねないことです(しかし、これも「視界の狭い理解」からは起きていないうちに想像することができないので悲しいですが)。

 

 もとより「律法学者」と呼ばれる人であれば「妥当で実践的な解釈」が求められてもいいくらいですが、その人たちにまで「我知らず忍び寄る病」であるところの「答えは一つしかない」という見解が迫ってくることもあり、「人間不在」「人格無視」な法解釈がまかり通るのことがあるのです。なかでも有名なのは「安息日」を巡る議論ですよね。

 

 「人の心を扱うマニュアル(それは詐欺のプロ志向が欲しがりそうなものでもありますから)までも「マニュアル化社会」が望むなら、それは(誤解を招く表現をあえて使うとすれば)非常に「魔術的」なものといえます。相手の心を自分の思いどおりに変えてしまう薬を欲しがるようなものだからです。「人格」あるいは(神学的な意味ではない広義な)「自由意志」の否定(あるいは無視)に関わるという意味で、便利か不便かという問題以前の問題で、極めて問題なのです。

 

 事はイエスの時代だけでしょうか、「我知らず忍び寄る病」は(ここでは「一億総マニュアル化」に擬えた象徴的表現ですが)、同様に忍び寄る「新型コロナウィルス」がやがて克服されるときがくるとしても、それ以上に、わたしたちの本性と自己理解の深まり無くしては依然として克服されることがないのです。