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浮かび上がる実情

ー「集まる」ことができないなかで「繋がり」を考える。

加藤 豊 神父

 

 コロナ禍はあらゆることをあぶり出すものとなりました。例えば、いまは容易に「集まれない」わけですが、そのようななかで「集まれない」としても、「繋がり」だけはなんとか保とうとして、各教会でいろいろな試みが行われるようになりました。

 

 問題は、そこから意外な事実が浮き彫りになってきたということです。つまり、これまでは容易に集まれていたものの、実は「繋がり」が希薄であったという事実。もちろん一口に「繋がり」が共同体に必須なものだとはいっても、「ややこしい」人間関係は避けたいものだし、複雑な社会でくたびれ果てたなかで、更に教会でも疲れてしまう、ということがあっては大変でしょう。

 

 教会のなかでまで「めんどう」で地上的な「しがらみ」に縛られていては、それが不安で「繋がり」を築くことさえ躊躇されることにもなります。とはいえ、自分の教会には果たしてどんな人が来ているのか、ミサの折、隣に座っている人について、自分はどれほど知っているのか、といった素朴な関心事となり得てよさそうなことでさえ、毎回、無関心でいられるとしたら、それはおよそ「共同体」と呼べる集団とはいえないのでは思ったわけです。

 

 いわゆる「人見知り」が原因でそうなるのなら、それは止むを得ないことだし、それであれば時間が経てばそれは解消されていくでしょう。また、控えめな性格の人が、自分から相手に声をかけることに抵抗があるのは当然のことで、これまた時が経てば解消されていくでしょう。だからそれらとは別に「繋がり」を拒む別の何かがあるわけです。

 

 わたし自身も卑屈なところがあって「自分は相手に値しない」と、どこかで思ってしまっているため、社交的とはいえない人間です。また、わたしのケースとは正反対に自信に溢れている人もおり、誰にでも声をかけられるという人もいて、羨ましい限りなんですが、かといって自信家が皆、社交家ということにもならないようです。「自信はあるが非社交的」というタイプの人もいますから、これはそう単純ではありません。

 

 「相手は自分に値しない」という視点は他者を寄せ付けない類の自信といえそうです。そういう人とわたしのケースとが「かち合う」とお互いに「そりゃそうだ」となるわけで、互いに「縁なき衆生」となるものだから、喧嘩になることもないが、おそらくは方や増長し続け、方やわたしは益々卑屈になるでしょうから、あまりいい関係とはならないかもしれません。

 

 「相手は自分に値しない」という視点に晒されてしまう相手(いわばわたしのケース)は、それだけで高圧的な気分に苦しまねばならず、もし、無理に関わろうとするなら、わたしは相手の御目に叶うように努力しなければなりません。しかし、よく考えてみると、そうしなければならない理由は一つもないのです。それにわたし自身は友達に不自由しているわけでもなんでもないのですから、余計に「なんでこうなるのか」とやがては気づき始めます。

 

 では、他方、相互に「相手が自分に値する」と思う者同士の場合はどうか、上手くいくのか、というと、これがどうもそうではないみたい。最初はいいが、付き合いが深まるにつれ、互いの要求もまた深まるからなのでしょう。そもそもこれはお互いに裁きあう姿勢にも思えますよね(当たり前のことですが、自分の思う通りに動いてくれる他人はおらず、他人の思う通りに動ける自分もこの世にはいません)。

 

 「理解されることよりも(相手を)理解することを」「愛されることよりも(相手を)愛することを」というフランシスコの平和の祈りは美しい。しかし美しすぎるからなのか「理想論だよ」とか「非現実的だよ」とか、そういう評価も聞かれます。そりゃ、なんの目的もなく、美辞麗句として受け取るならばそういう印象も拭えない。

 

 けれども、これはわたしにとってどれほど核心を突いた名言で、人間関係において他者との「繋がり」を実感する究極のリアリズムに思えます。なぜなら、この境地には「孤独」が微塵もないからです。世間には本人のプライドが高過ぎて、なかなか他人と上手くいかない人もいて、そのためその人は孤独に陥ります。否、もっともそれを背負い、自覚して生きる孤高の人であり続けるなら、かえってそれは「さま」になる程の説得力があることでしょう。

 

 ところが、多くの場合どうにもそういうふうにはなりきれず、またなりきろうとしても「割り切れない」というのか、他人からはむしろ、その人の「淋しさ」を見透かされてしまい「さま」にならない。たまたま他者と関わりを持つ機会があっても、我慢できずに「そこいら」の相手を自分に見合った高みにまで引き上げようとしてしまう。だが、それはいうまでもなく相手からは「付き合わされる」ことに他ならないので迷惑ですよね。

 

 こうした様々な事例を観ていると、まさに「理解されることよりも理解することを」と祈ったフランシスコは、常に万人が自分と繋がっていることを肌身に感じていたと思います。たった一人で過ごす日でさえ、決して孤独ではなかったでしょう。わたしは自分が無知なので、いつも善意のアドバイスには耳を傾けますが、もし、器用で賢かったらもっと傲慢だったかもしれません。

 

 実際、気の利いた助言はありがたいものです。しかし、自信があればあるほど「お前になど言われたくない」とばかりにそれを拒んでしまう人もおり、結果、損をしている状況を目の当たりにすることも珍しくはありません。いったい自信やプライドが何の役に立つのでしょう。(もちろん真の自信や真のプライドは本来、他者への優越感からは生じないものだと思いますからここでの表現は妥当ではないかもしれません。実際には「自信幻想」だったり「プライド」幻想だったりするのでしょうね)。

 

 広く友情を結ぼうとする者には優越感も一種の囚われであることは明らかです。その囚われから解放する祈りとして「平和の祈り」の言葉が響いてきます。

 容易に「集まれない」このときだからこそ、いまわたしたちには「繋がり」が求められています。同じ価値観を持つ者同士が一致できないのではありません。同じ価値観を持ちつつも各自の経験や受け取り方によって一致点がズレているだけなのです。もちろんわたしも含めてですが教会が確認を怠ってきたためなのです。

 

 このコラムのコーナー以外においても、他の機会にも、何度もいいますが、苦手な相手を無理に好きになることはありません。それは自分に嘘をつくことにもなり、辛くなるばかりでしょう。では嫌ったままでいいのかといえば、それはそもそも精神衛生上よくないでしょう。ただし、避けてばかりでいいのでしょうか。関係性を築くことの最大の障害は、相手にではなく、自分のなかにあるのではないか、と省察することが当然あっていい。

 

 わたしたちは互いに愛し合うようにと招かれた者たちです。繋がりがなくていいはずはないのです。「繋がり」というテーマは無論その対「人間観」から宣教論にも重大な影響を与えるものです。時々「信者になってやってもいいぞ」という人が現れることもあるので、一概にはいえないまでも、初めて教会の門を叩く人の多くは、受け入れてくれるかどうかという緊張や不安を伴っていると思います。ここでもまた、わたしはフランシスコの「平和の祈り」を想います。もし仮に「行って、隣人になりなさい」が「さあ来い、隣人にしてやる」になってしまうなら、どんな崇高な宣教論が用意されていても全ては机上の空論で終わることになってしまうでしょう。

 総じて「繋がり」は共同体の基礎です。互いの存在を認め合うために、その存在じたいは受け入れ許容されるべきものでありましょう。これは特に、初めて教会を訪れる人たちへの配慮でもあります。「それはわかってはいるが、他人に目を向けるほどの心の余裕がない」、という人の気持ちはよくわかります。主はそういう余裕のなさをも受け止めてくださるでしょう。しかし、余裕がないといいつつ、余裕で自己主張できてしまうのは何故なのか。本当は余裕があるが、嫌なことを避けているだけなのではないか。でもそれは皆がそうなのですから、あまりいいわけにはなりませんよね。

 

 こうしたことから未だ依然として改善されない日本の教会の課題である「受け入れ態勢」の脆弱さが、再び思い起こされてくるのです。