加藤 豊 神父
最近では、聖書の解説も多種多様なものが出回っており、それらが皆の手が届くようになったのは喜ばしいことです。そのような解説書で、よく原文について触れているわけですが、どのような解説であっても内容理解のための原文引用という意図は当然共通しいています(無論わたしだって学者さんだって「出版されているものから未翻訳なものまで全て」に目を通しているかといえば、資料としているものは比較的特定されてしまうのですが)。
さて、「信仰」の原語が「信頼」―ギリシア語のπιστεύω(ピステウオ)―だとあらゆる資料が指摘しています。ただ、神様に対して「信頼」という日本語を使うことに何らかの支障があったらしく、やはり「信仰」としたほうがいいというところで落ち着いたようです(「信頼」という語はおもに「人間関係」における言葉ですからね)。ただ、この「信頼」の語の内容は是非とも確認しておきたいことです。
たとえば、昨今のパンデミックがもたらした「ありとあらゆる被害」を「神は見て見ぬ振りをしているのか」とか、「神は沈黙したまま人間を助けないのか」とか、そういう批判はあまりにも簡単すぎるものではあっても、一度は誰の心にも浮かんでは消えるほど率直で素朴な感情だとは思います(「わけを知りたい」のは人間の基本的な宗教的欲求でもあるでしょう)。
ただ、それでも(それが理由で)「信仰」を捨てない人がいるのは何故か、という点に、かなり重要なポイントが秘められていると思うのです。
悲劇的な状況に陥っても相変わらず祈り続ける人がいるその理由とは何でしょうか。先ず、そこにしか「すがるものがないから」という考え方が出来ますね。希望的観測を根拠にしたものというか、これは(この程度なら)誰にでも割り切れる結論だと思います。
次に、これは皆が皆の結論とはいえない答えだと思うのですが、「何かわけがある」と思えるかどうかで、これは相手を「信頼」していないと思い浮かべることが不可能な想いです。また、これは「信仰」という次元以外でも、特に人間関係において、その後の関係性に確実に影響するものです。
「自分は何故こんなめに合わねばならないのか」という叫び、そこを起点に道が二つに分かれます。その一つとして、この「何かわけがある」という道が続きます。
「神は人類を見捨てたということか」と思えるような現実を生きているわたしたちですが、こうした思いは、人間関係でも時折「相手が自分を見捨てている」という気持ちを抱く人もいるはずで、それは相手に対して「信頼」が築けていないときには顕著でしょう。
もっとも、詐欺に合わないためには必要な警戒心は生きていく上で必要で、この感覚がなければ身も守れないでしょうね。だから「頭から信じ込む(思い込む)こと」と、丹念な関係性樹立を目的とした「信頼」とが混同されてはなりません。
むしろ真の「信頼」とは、「抱かざるを得ない疑い」というものを一旦は持ちつつも、その上で相手を信じようとするところから、はじめて生じるもので、そういうプロセスを経て、疑いを乗り越えてようやく確立されるものであることを確認しておきたいものです。
もとより「信頼」が築けている(あるいは築こうとしている)場合は、相手を疑いようがない前提がそもそもあって、それが深まって「何かわけがあるのだろう」という発想にたどり着くわけです。「主なる神とイスラエルとの歴史」は、その種の要素の豊富な源泉ですね。
こんにち「相手の立場を理解する気(そうしたいという望み)」さえもないところから関係性が始まることもありますし、それゆえ話も「一方通行」となるほどの「頑なさ」に無自覚なキリスト者だって、やはり現実にはいるわけです。教会では「血が繋がっていないのに兄弟姉妹という呼称がある」のですが、相手の気持ちより「自分の気持ち」が優先してしまうのはやはり人間の弱さなんですよね。
「何かわけがある」と思えるかどうか、少なくとも「神の国の実現」以上に「自己実現」が「信仰」のように思っているうちは疑いしか残らず、結果、あらゆる不満は次から次へと立ち現れ、かえって魂の平安は遠のいていってしまいます(座禅をする人がいうところの「座りがない」という状態ですね)。
その現実を前に他人を裁いてはいけませんが、かといって「みずからの人間的な弱さにみずから気づくこと」がなければ、視点の異なる相手を許容できなくなるのは無理もないことです。そうやって気がついたときには周囲から孤立してしまうとか(自分と向き合うことは辛くとも成熟した豊かさには繋がるはずなのですが)、しかも現代日本社会において、このようなケースが増えるなか、コミュニケーション能力が企業戦士たちの間でも深刻な問題として扱われています。共存共栄がどんな求められても、共に歩むことさえ頭の中だけでプランニングしてしまい、結論も最初から出ているというのであれは、分野を問わず社会問題となってしまうでしょうね。
現代人の一見「自由で縛られない思考」には良い面があるとか、ないとか、そこまで尊大なことをいいたいのではありません。ただし、実は一見「自由で縛られない思考」によって「みずからを、みずからが苦しめている」という人がどれほどいるかと思うと、教会の使命は決して軽くないと思います。
世の中は「人間には(自分には)想像も着かないことがまだまだ沢山あり、気づかないだけで目の前にもそれがある」という当たり前のことを忘れてしまっている現状から、「信頼」に基づく察しである「何かわけがあるのだろう」という考え方は退けられてしまうのです。結果、悲劇はパンデミックだけでなく、それに伴う「人の思い」が悲しみを増長させている面があって、ともすれば精神的なバランスもそこから崩れてしまうことだってあるんですよね。
「何かわけがあるのだろう」というこの「信頼」に満ちた想いが、神様(という対象)に向けらるとき、多少、自分の思うようにならない事態に遭遇しても、易々と「信仰」からは離れないという人たちの心の内側も想像に難くはない、といえるのではないでしょうか。