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「陽だまり」それは御子のイメージ

加藤 豊 神父

 

 これから暖かくなるというのに、こんな話は余計に暑さを増すかもしれません。それでもあえていうなら、わたしにとって御父のイメージは太陽です。

 しかし、これはわたしだけではなく、古来より、どの民族にも見られるところの太陽信仰は、その後、キリスト教の神理解に寄与することになって以降、今でもわたしのような感覚を持つ人は多いのではないでしょうか?

 

 (わたしは神父のくせに伊勢神宮が大好きなのですが、実は日本でも天照大神の観念形成に至る以前であれば、よく指摘されているように、太陽信仰のルーツは男神であった形跡が多々あります。ただ、これは「諸宗教」の記事でそのうち取り上げたいと思いますし、今やめます)。

 

 聖霊は、神の息とか息吹とか、風とか、火とか、水とか、鳩とか、とにかく非人格神的に表現されることは多いです。わたしにとっては、太陽から来たる光、すなわち日光のイメージですが、これは多種多様に言い表されることでしょうね。短絡的に「気」の概念を持ち出す人もおり、「オーラ」とか、電波のような無線で神様と繋がっての聖霊体験を狙うような、ちょっと危ない感じの信仰形態に陥ってしまいがちなのも否めません。


 (ムハンマドも天使ガブリエルを通して掲示を受けて、コーランを綴ったとされますが、そのときの様子はあたかも聖霊体験のような印象です。その状態はジン(悪霊)ではないかと思われるほどのショックだったといわれます。カトリックでもそういう経験をして驚きと恐怖に迫られたという人もいます。ショッキングなことなので、「やんわりとした」ものよりもかえってリアリティーがあるようにも思えますが。ちなみに、イスラムでは、聖霊理解はキリスト教のそれとはかなり異なりますので、これも詳細な説明が必要ですが、やはり今この場ではそれは避けます)。

 ところで、太陽と日光は切り離せないわけですが、両者は熱を発しもたらします。三位一体というわけではないが、「太陽そのもの」と、その「光」である日光により、冬の寒い日、わたしたちは、「陽だまり」に入るとホッとして、心も体も安らかな気持ちになってきます。

 

 誤解を恐れずにいいますと、それまでは寒さに覆われて、思考パターンさえもそこに囚われてしまうなかで、「陽だまり」は入る人の意識を元に戻し、更に新たにし、いわば復活させるかのようです。

 そんなわけで、かなり私的な経験や個人的感覚に過ぎる話ではありますが、「御子」のイメージはこの場合、わたしにとって「陽だまり」です。父なる神と、聖霊なる神の働きは、この地上に慈愛に満ちた主なる神の「温もり」であるイエス・キリストを与え、その温もりに浴する人に「陽だまり」のなかにいるような平安を伝え続けます。

 これはあくまでも「わたしにとって」という前提でのイメージであり、イエスご自身は、「わたしはブドウの樹である」とか、「わたしは命である」とか、ご自分で仰っておられますから、それ以上に付け加えることは本来何もないのであろうとは思いますが、ここでは「解答」について取り扱っているのではなく、極主観的な感性の次元である「イメージ」について扱わせていただいておりますこと、ご了承ください。


 (ヒンドゥー教でも聖典でクリシュナ神が自ら語っているところがあり、「わたしの味は水である」とか、「わたしは<季節でいえば>春である」とか、やはり「わたしは〇〇である」という記述が見られます。これまた機会があれば「諸宗教」のほうで)。

 「単なる」イメージとはいえ、人間はおよそ「見えないもの」を推論し、捉えようとするなら、想像力はその一助をなすものであるという点でそれは大切です。ここで注意すべきことがあれば、その想像力をせっかく用いていながら、自分勝手な空想をいかにも根拠のあるもののように考えたり、それを一方では「史実」と混合したり、他方では「啓示」と混同して、現実逃避にエネルギーを費やしたり、ということが、人々を救いから遠ざけてしまうことがある、という恐ろしさなのです。

 対話を欠いた不毛な論争は常に宗教間の対立を深め激化させますが、もうそうなると、ひたむきな真理探究はそっちのけで自らの主張への執着が露呈されるに過ぎない、という結果しか残りません。

 さて、また再び「陽だまり」イメージの話に戻りますが、わたしにとってこの感覚は平安の試金石です。学究同士であれば、競ってこそ真理へと向かうといった発想もありえるでしょうけれど、自分から「陽だまり」を出て風雪に立ち向かう勇気は、弱いわたしにはありません。冷静な判断が求められる物事であればあるほど、「陽だまり」で検討したほうが、自分には賢明なことのように思われてなりません。

 寒さのイメージが「現実」であるならば、現実が厳しいほど「陽だまり」は望まれます。しかもそれは人間の力で得られるものというより、ふと、謙虚に身を低くしたときに、ふと訪れてくれる安らぎなのです。