装置

加藤 豊 神父

 

 人は様々な装置を作ります。教会にも便利な装置が導入されてきています。HPだって広報のための装置のようなものでしょうね。装置の発展はわたしたちの生活を快適にしてくれますが、わたしは最新の装置はとても苦手です。それに便利だからとうことで使いこなせないものを買っても、あまり得なことにはならないでしょう。

 

 最近は、教会に貼り巡らされた装置も多種多様で、センサーが人影を察知するとライトがついて、それがまた自動的に消えたり、外の明るさが変わり、暗くなると電気が着くとか、これもセンサーですが。

 

 ところが、意外にも結構、センサーは効かなくなります。そうすると、手動の方が案外、便利だったりしますし、電気代も然り。夏と冬とでは外の明かりも違いますから、一定の明るさに設定できるセンサーならいいが、それは手間としは手動と変わりないからなのか、完全自動のものが取り付けられていて、単純な理論的判断からのみ、「つくはずだ」「消えるはずだ」などといってみても仕方ありません。だって「つかないし」「消えてないし」。

 

 そうすると、結局それは取り扱い方が悪いからだ、という絶対的な確信に基づく反論があるでしょう。でも、「つかないし」「消えてないし」、あとは、わたしの気が変になったのかと、自分を疑ったりしますが。原因は、これも単純な理論です。夏と冬とでは明るさが違えば、センサーの判断が及ばないことがあるというだけです。他にも、人影に反応するセンサーは、木の揺れる影にも反応します。だから自動ドアが誰もいないのに開くわけです。


 ところで、日本の教会は「宣教促進」のための装置を作って来ました。しかし、肝心なことは、その装置のエネルギー源です。巨大な装置ほど、それに見合った、しかも効率の良いエネルギー供給が必要です。

 

 実はこの「装置論」はわたしのオリジナルな発想ではありません。ただ、なるほど、と思うことばかりなのです。色々な試みを実施しては見たもののそこで動くのは結局は人であり、人こそがエネルギー源なのです。組み立てた後で、「さあ、エネルギーはどこから取ろうか」ということになっては、動かないまま装置は置きっぱなしになります。あるいは、一番下部で支えている人に負担がかかることが多いので、人手不足がかえって深刻になります。

 

 よく種々の職場で会議があるわけですが、会議で最悪なのは、「議題」が数学でいうところの「問題」のようになり、「審議」が数学でいうところの「計算」となり、「結論」が数学でいうところの「解答」となることでしょう。

 

 しかし、会議で「議題」となることは「実行」に移さねばならない「問題」を前にして「解答」を出そうとすると同時に誰がその「結論」を「実行」するか、ということでしょう。「解答」が出た段階で終わる会議だと、「議題」は一向に解消されませんね。

 

 年老いた宣教師、わたしが尊敬する司牧者でもあった神父様が、あるとき悲しそうにこういうのです。「わたしたちは働く信徒を育てるばかりで、考える信徒を養成してこなかったのだ」と。いうまでもなく、これはその神父様の正直な告白です。目的がよくわかないにも関わらず、動きはとてもよかったという人が多かったんでしょうね(もちろん神父様はそれじたいには感謝しておられましから自分を振り返っておっしゃたんでしょうね)。

 

 ただ、今はまた違った課題が浮かび上がって来ているのも確かなのです。考えるだけでは、やはり教会は動かない、という現実から、奉仕者の要請が急務なのです。このバランスは重要で、よく考える人はよく動きますし、よく動く人は動きながら考えていることが多いです。エネルギー源に敏感なのです。

 

 しかし、バランサーを全自動にしていたら、どちらかに偏ったり、誤作動を起こすことも否めないでしょう。見守る必要は常にあります。わたしたちは(特に心ある人は)どうやって、いい教会共同体を作ろうかと絶えず模索しています。

 

 ただし、考えて苦労して最新の装置のような方法論を編み出してみても、それを実行に移すにはエネルギーが必要であり、エネルギーを捻り出す方法も同時に考えなければ「装置」は動かないんですよね。