加藤 豊 神父
人間相手の仕事というのはこの世にどれくらいあるのでしょうか。
医師、看護師、理容師、美容師、教師、ソーシャルワーカー、カウンセラー、街角の占い師や屋台のお店で販売をしている人なども、これに当たるかもしれません。ようするに、わたし自身あまり考えたことはないのですが、司祭職はその一つですね。もちろん、神父様がたの中には学業を専門にしておられるかたや、その一環で著作活動に専心しておられるかたもいますから、この場合、一括りに「司祭職」と言ってしまわずに、「司牧者」という言い方をした方がが妥当かもしれません。
プロテスタト諸教会では「牧会者」ということになりましょうか、何れにしても一般的なイメージとしての教会共同体の代表者、カトリック教会でいう主任司祭、あるいは助任司祭という任命を受けている人たち、また、それぞれ固有の共同体の司牧に当たっておられる人たち、ないしはその仕事の延長線上で教壇に立つことを生業としておられる人ですね。その人たちは日々、生身の人間を相手に働いておられるわけです。
こうした仕事をしている人たちには(限ったことではないかもしれませんが)、時折、深い後悔のときが訪れます。いうまでもなく後悔先に立たずですから、その気持ちを今後に役立てていくしかないのが現実だし、「過ぎたことはもう仕方がない」と割り切って前進するのが、その種の職のプロなのではありましょう。
とはいえ、わたしはその点、少々、プロ意識に欠けるところがあるのか、あるいは司祭職という職種の特徴としてこうした後悔を思い巡らすところがあり得るからなのか、その日その時その人とのことを振り返っては「あの時の自分をゆるして欲しい」という思いに駆られることは多々あり、その思いをして後の仕事の仕方に影響してしまうわけです。多分これは、わたしだけに限ったことではなく、「わたしもそうです」という人は沢山いるはずです。そしてそのような想いは、必ずしも真面目だと評される性格かどうかとは関わりなく、起こるときには誰にでも起こり得るものではないでしょうか。
わたし自身は、割り切れるほどの強さはなく、引きずりつつも仕方なく前に進む、というパターンですが、かつて、ある先輩司祭から非常に真心あるアドバイスをいただいたことを今でも覚えています。師は言いました。「プロ野球の監督は、既に負け試合だと考えられる状況において次の勝利を模索します。選手も致命的なミスを悔やんでいては次回に支障があるでしょう。試合はシーズン中には続いていくものであって、その日一日で終わることではないからです」と。
なるほど、納得したものですが、その後「そういう気持ちになるためには何が必要なのだろう」と、素直に受け取りつつも、あとは自分自身の問題だろうな、と思われたのです。プロの選手であっても、試合のミスが決定的であれば、そのときのプレーを観客は結構いつまでも覚えているでしょうし、なかったことにはできませんから、結局は引きずるのが現実なのだと思います。
思いますに、こうしたことは、良心と自己肯定とのバランスの調整や、時間の経過がもたらす落ち着きを実感できるまでの忍耐など、それらをもって対処するしかないのかもしれません。開き直っては傲慢に陥るかもしれず、自己否定からは建設的な結果は得られないでしょう。
主は仰せになりました。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)。この聖句を巡ってはかなり幅広い釈義があるようです。ただ、わたしは聖書学者ではありませんし、最初にこれを読んだときは当然、司祭とされるよりずっと前のことです。今この聖句について感じているのは、この「自分を愛する」ということが本当はとても難しいことなのだろうということです。
真の意味での自己愛と、自分の観点でしか考えようとしないエゴイズムとは、相当な違いがあるでしょう。そもそも線を引き難い人間の感情を前に、それが「自己」によるものか「自我」によるものか、というのは不完全な感覚しか持っていない人間存在には見分けがつき難いわけです。
「良心」は「第二ヴァティカン公会議公文書」中に多く出てくるキーワードで、もともとは「シュネイデイシス」という言葉の和訳です。公文書では、これを「初めから備わっているもの」であると同時に「形成されるもの」であるという理解のもと使っています。だから放ってもおいてもいけないし、適切に育っていかなければならないものということです。
自己肯定に一辺倒では成長はなく、自己否定に陥っては意味がない、といえるでしょう。「自分しか愛せない」のでは幸せには程遠く、「自分を愛せていないのに隣人を愛する」のであれば、その隣人愛そのものが疑わしいでしょう。難しいですね。
カトリック教会における「日本語の良心」の概念は以上のようなものです。この記事はいわばその紹介に留まるものであります。