· 

全てが神のときとなるように

加藤 豊 神父

 

 既にお伝えしたもの、まだ知らない人もいるかもしれないと気になっているのが、今回の「緊急事態宣言下におけるミサ中止」のお知らせについてです。


 教区内の全教会が公開ミサの中止に踏み切ることになったのは、去年(2020年)の2月27日(その年の灰の水曜日の翌日に当たりますが)以来です。そのときには実に6月21日以降の条件付き再開までの間、教区内のどこの教会でも公開ミサではミサが行われていない状態でありました(この場合、非公開に当たるのは葬儀などで、非公開であるため基本的に密葬として厳しい原則に基づいて営まれねばならないわけですが)。

 

 そして今回(2021年)8月16日(聖母の被昇天の翌日)から久しぶりに教区単位でのミサの中止が決定されたのです。ただ、前回と違うのが、中止が解除されるまでの当面の期間が提示されており、これは目安になるのかといえば、社会的にコロナの終息が見られない以上、少なくとも「目安以上のもの」とはなり得ないのです。


 実際、去年の状況からしても、長かった中止期間の解除後に、各教会でのミサの再開にはばらつきがあり、小金井教会も解除当日の6月21日には条件が整わず、翌週の28日からの再開となりました。その他、7月になってから再開した教会も沢山ありました。

 さて、この後のことは誰にも予想がつかないわけですが、わたしはこうしたことがある度に、その中に何か秘められたみ旨があるはずだと感じるのです。それなしに寂しさを感じるだけなら、その人は益々寂しさが増すことになってしまうでしょう。また、この期間に一人一人が祈りのうちに意味ある(意味を見出す)何かと無関係に悲劇を無駄な時間と軽んじるなら、その人には自分の思い以外は無駄なことという自分勝手な考え方がいかなる場面にも付き纏い、最後は自分の確たる思いさえ、無駄になっていくことでしょう。

 

 そもそも「神を信じる人生に無駄というものはあり得ない」といわれていますから、今現在わたしたちが一番最初にしなければ(思わなければ)ならないことがあるとすれば、それは「探すこと」であったり、「気づくこと」であったりします。

 

 誤解を恐れずにいえば「教会」が神なのではありません。共同体的な横のつながりが大切なのはいうまでもありませんが、わたしたちは「信仰」の延長線上に「教会」を考えるのでなければ無意味です。「信仰」と無関係な教会なんてあり得ませんね。


 更に「小教区の聖堂」というのは「共同体の一致のしるし」とされます。つまり心静かに「神とのとき」を各人が大切にするべきで、共同体はそのような一人一人の集まりであることを忘れてはなりません。そうでないと「信仰」も「全体主義」のように捉えられてしまったり「教会」というものが「巨大な偶像」になりかねないのではないでしょうか。

 

 「キリスト教」は「教会教」ではありません。「教会先に在りき」となってしまうなら、「見える教会生活の喪失」はまるで「神の喪失」のような衝撃をもって受け取られねばならないでしょうが、幸い「地上の教会」がそのまま「神の国」の表出というわけではありませんし、むしろ教会(ここでは小教区のことですが)はその不完全性からも善意の人をつまづかせてきた経緯だってカトリック信者は皆知っています。それゆえ「教会」は「いわば秘跡」(イエスの「しるし」として機能するときと、そうでないときの両面)としかいえない、というのがカトリック教会の「教会論」にはあるのです(全ての「教会論」でいわれるわけではないにせよ)。

 

 わたしは今コロナ以前から教会に来れないでいる人たちに心を向けています。様々な事情を抱えながらそういう人たちが今までもいたのです。ただ、わたしが知る限り、その人たちから祈りが消えていることはあまりなく、かえって教会に通えている人たちのなかで(やはりわたしが知る限りほとんどいないですが)祈りが消えてしまうことがあります。そこで、これはもう一度わたしたちが確認しておくべきことなのですが、先ず「教会」とは「建物」のことではありません。次に「集まり」をして共同体と定義してしまうのは大まかすぎますね。

 

 では「教会」とは一体何かというと「地上を旅する神の民」だといわれます。建物や「しがらみ」は「分かり易い」「地上を旅する神の民」と聞いてもなんだかピンとこない、ということになるとは想像に難くないですが、これはこのコロナ禍においては教会が一番問われていることなのです。


 「主を信じる人々の繋がり」(これは天上の繋がりにまで及びます)といういいかたをすれば、わかってもらえるでしょうか、何れにしてもわたしたち一人一人が「狭い教会理解」から解放されなければなりません。「教会」を巨大な偶像にしてしまわないためにも、また「共同体」が「個」を軽んじて「全体主義」に変わってしまうことがないように(もとより共同体の構成要素における最も重要なものが「個」なのですから)注意が必要でありましょう。

 

 もちろん「個人的な信仰は良くないもの」とされていますから「個人中心主義」は避けて然るべきですが「個」を差し置いて共同もまたあり得ないことなのです。祈る人々の連帯こそが共同の祈りとして価値を持ちます。この点には細心の注意が必要でしょう。そこで差し当たり、次のような自覚が大切になってきます。

 

 自分もまた「教会」であるという意味で、兄弟姉妹たちへの共感が湧いてくる、ということ。建物や人間関係を重んじるのは、主の思いを自分も受けているということ。「教会はいわば秘跡」であるということから偏った思考でそこにとらわれないこと、などなど、であります。おかしなことになりそうならば、振り返って思い起こすことも重要です。この点では、「これで十分」などということはありません。むしろ回心は日々の積み重ねからではないでしょうか。

 

 今わたしたちは振り返る「とき」を与えられた、と、わたしは繰り返しそう思っています。よろしければ一緒に探しませんか、振り返らねばならない数々のことを。一緒に気づかせていただこうではありませんか、気づかなかった数々のことを。