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久々の随想

加藤 豊 神父

 

 コラムはかなり長い間、時間を空けてしまいました。コロナ以前(あるいはコロナ禍のメッセージ)のときのように、頻繁にはパソコンに向かえない日々が続いたのです。そういうことも念頭に置いて、今日はいろいろと自分なりに振り返りをしてみました。

 

 思えば、私が神学生になったばかりのこと、阪神淡路大震災がありました。その年の夏休み、西日本各教区の神学生たちは、自教区に帰省する授業がない期間、ほとんどの学生がこの震災被害に関するボランティアに時間をさきました。思えば、私は司祭になって間もなく、アメリカ資本主義のシンボルでもあったニューヨークセンタービルへのテロがありました。どちらも昨日のことのように思い出されます。

 

 司祭生活も助任司祭から主任司祭へ、ちょうど鳥インフルエンザや狂牛病が話題になっていた頃でした。そして、2回目の主任司祭をしていた教会にいた時には、東日本大震災が起きました。その日、わたしはテレビで国会中継を見ていましたが、リアルタイムでテレビ画面の向こう側と自分の部屋の両方が大きく揺れ始めたのを感じ、国会にいた議員たちもわたしも、テレビの向こうとこちらで両方が大慌てになったことさえ覚えています。

 

 何度も下から揺れましたが、その後なぜか教会の建物が上から揺れました。わたしは聖堂のご像や十字架が倒れていないかどうかが心配になり、揺れる中、聖堂内に入りましたが、幸い、お祈りに来ていた人もおらず、ご像もそれが乗っている台もそもままで倒れてはいませんでした。ホッとしたのも束の間、また上から揺れたのです。しかも爆音が低い音で大きく響いていました。「これはなんだ」と思い、外に出てみると、教会の前のホテルの大きなガラスに「燃え盛る海辺の炎が空高く炎上している様」が反射していました。

 

 わたしはその時は五井教会と鴨川教会を兼任していたのですが、五井は内房で工場の街、海に近くとも、海辺は延々と工場地帯ですから、せっかく海が近いのに、普通に海を見たくても湾岸には工場が連なり、それらが陸と海を隔てていました。その工場のいくつかには、球形の巨大なコンビナートがあちらこちらにあって、その一つ一つは、本体の設置のために支えている金属の足で固定されており、この足が壊れ、結果、コンビナートの一つが地面に落ち、大爆発をしてしまったのです。近くに民家はないものの、その場にいた関係者の方々のなかには死傷者もあられたと記憶しています(もう一度調べてみないとはっきりしませんが)。上空から伝わって来た「上から揺れた」正体は、その時の爆音だったのです。

 

 わたしがいた五井教会からは5キロ(工場じたいが巨大な敷地なので現地からは2キロくらいです)の距離でしたから、爆風に晒されて教会の建物が、今度はわたしの心配事になりましたが、これも大事には至らずにすみました。周辺地域には避難勧告が出され、外房に位置する鴨川教会はもとより、ついに内房にも津波警報が出て、避難勧告が出されました。その後は次第にあらゆる警戒が解かれていったわけですが、コンビナートの炎上は夜があけても、その日の日中まで消防による必死の消化作業が続けられました。更に、その翌日、まだまだ、余震が度々あったなか、わたしは木更津教会の葬儀を頼まれていて現地に移動し、これは流石に、わたしとK神父様(当時西千葉教会の主任司祭)との二人で、通夜と葬儀を分担しました。

 

 そしてわたしは休養期間を経て、3年くらい前から小金井教会にいます。最初はお手伝いで、次に留守番として、さらに来て2年後に住人となり、その翌年にコロナ禍で公開ミサが中止となって、その後、様々な対策に追われる日々が続きましたが、ちょっとは落ち着いてようやく今となりました。

 

 人間の力では、明日の天気一つ自分の思い通りにはなりません。「当たり前すぎるくらい当たり前のこと」ですよね。ところが、人間は(大自然の脅威に対しては無力だと自覚できるが)人間じたいを思うように動かせる、と思っておられる人は、世の中に結構おられるのではないでしょうか。しかし、人間もまた(皆、大事なことを忘れていますが)大自然の一部なのです。しかも人間には心がある。

 

 しかし、不思議ですね。なぜ、人間は他人を自分の思い通りにしたがるのでしょうか。「それは人間には支配欲があるからだ」と結論づけることもできますが、その根拠が本当に「支配欲」だけだったとしたら、それを抱く人に特有の質実剛健さが垣間見られますし、そういう人は、そのままでは巨大なエゴイストのままだが、花開けば時代の英雄にもなるような資質を発揮することもあるのです。だから、相手を自分に注目させたいだけの根底にある動機が「支配欲」であるならば、それはまだ高尚なほうでもあるのではないでしょうか?

 

 それよりもっと身近なところで、もっと素直に素朴に人の心を注視するなら、この場合の動機というのは、「一種の寂しさ」で
あったりもします。そりゃ相手が自分の仲間になってくれるほうが、自分から相手の仲間になるよりは楽ですからね。そういうセコイ動機だったりもするわけです(いわゆる「支配欲」が英雄的な願望に思えてくるような)。

 

 例えば、ある高校生の男子が恋をし、好きなお嬢さんを前にストレートに告白できない場合、かなり回りくどい論理展開を駆使して対策を練っている姿を見せてくれます。その論旨は、聴けば聴くほど、まことに崇高なボキャボラリーに溢れ、それでいて、なぜだか、その論旨の最終的な結論が見えにくい、という特徴から、その男の子の心理的背景が読み取れます。でも、それでもよくよくそれを聞いている親友から、こういうアドバイスをもらう「ああ、わかりやすく言い換えれば、君はあの娘に振り向いてもらいたいってことなんだな」と。それであれば壮大な脚本を書くよりも他にできることがある、ということになるでしょう。

 

 事と次第は種々のケースに分かれるとは思うのですが、好きな相手のほうから振り向いてもらえるようにするには、どうすればいいのか、と錯誤し、その機会を淡々と狙い、密かに準備するパターン、これはまあ、なんともセコくて不甲斐ないことに思えます(わたしの性格からは)。自分が恋している相手から、逆に自分に告白してくれるようにと工夫をするくらいなら、一か八かで自分から話しかけてみればいいではないですか。

 

 ただ、それがわかっていても、そういったセコイ計略は、これまた一種の「自信」のなさからも生じます。自信がないならないで、機会が巡ってくるのを待っているその間に、自分自身を磨けばいいわけですが、その努力が大変なことを直感する人もいますから、そういうケースにおいては、常に計略に打開策を求めてしまう。

 

 相手に受け入れてもらうための努力というのは、コツコツとひたむきに前に進めて、やがて実ったならば、そのときそれはまことに「愛の形の一つ」としてどんなかたちであれ開花するはずですが、保証はない(しかも屈辱的に思えるような下積みの忍姿はカッコ悪く思えてしまう)から忍耐が必要なのに、それを避けて通る人もこれまた沢山いるわけです。


 むしろ虚勢を張って自分を大きくカッコよく見せるほうが効率的だと思えたり、なるべく自分のスタイルを誇示したまま、相手が振り向いてくれることを望んで止まない、というのは、これはかなり惨めな結果が出てしまうことにもなりかねません。で、時間ばかりが過ぎていく。それよりも「原寸大の真の自分」を知り、「かくありたい自分」と「かくある自分」に調和を見出し、「自分自身の現実」に立脚して事に当たる、これが一番現実的で、実践的な対応となるでしょう。ごくごく自然体な態度で他人と分け隔てなく関われますし、こだわりなく物事を見、身の回りにはこんなに楽しく喜ばしいことが溢れているのか、
ということに気づかされることも多くなるでしょう。

 

 わたし自身、行く場所、行く場所、に、災難が直撃するような経験が(上述のように結構あって)遂には、無理がたたって病気となり、今も病気を抱えたままですから、あらゆる多方面の方々にご迷惑をおかけしているようなことが日々これあります。しかし、この病人としての自覚はわたしを謙遜な心にもしてくれます。だから相手にご迷惑だったことがあれば、それに素直に頭を下げ、そこにはなんの屈辱感もありません。

 

 本当のことであるなら、それを嘆いていては本当の自分を知ることもできず、本当は相手が自分をどう思ってくれているのかも最後まで知ることができません。本当に足りないものがあるならば、その足りなさを補充しなければなりませんが、それらは本当のことをいってくれる人の意見をもとにしてこそ、本当の自己認識の課題に向き合うことが出来、最終的には、それが本当の自分のためともなって、本当の成長が可能となります。

 

 明日の天気さえ、自分の思い通りにはなりません。ある日突然、地震が起き、ある日突然、豪雨が降り出し、ある日突然、テロ事件が身近に迫り、ある日突然、パンデミックに見舞われます。そして、ある日突然(ミサの司式を終えた途端、香部屋には救命士さんが待ち構えていて救急車に乗せられたり)その日に入院し、しばらくは喋れなくなり、ある日突然、休暇の命令が下され、ある日突然、「小金井教会へ行きなさい」と辞令を受け、ある日突然、新型コロナウィルスの発生により、パンデミックのなかで皆で苦労しながら教会を続けてきて、ようやくこんにちに至りました。

 

 限界状況において、それでも人はセコイ謀(はかりごと)に夢中になって、しかもその渦中に無関係な人をもひきづり込んでしまうことさえありますが、謀(はかりごと)は、(諸葛亮レベルのそれでないと)大概はうまくいかず、それどころか後々みずからが恥ずかしい思いに襲われ、ばつが悪くなって苦しむものです。

 

 いっそもっと自由に心を解き放ってしまったほうがいい、今現在わたしは「自由にはならないことが多いが自由だとは感じている」のです。加えて、「どうしても、これだけはしたい」という願望が今のわたしにあるとすれば、普通にミサを捧げたい、とか、とにかく健康に気をつけたい、ということであって、後は主が計らってくださるのではないでしょうか。

 

 「賢者は快楽を、ではなく、苦痛なきを求める」というアリストテレスの言葉は、わたしにとって一生忘れることができないものとなりました(虚栄心の満足も結局は快楽でしょう)。控えめな姿勢でいればいるほど、逆に人間的矮小さを回避できます。それは「賢者」の振る舞いだからです。それに、そういう姿勢でいればいるほど、「思わぬ幸運が訪れたとき」には、感謝の喜びが何十倍にもなりますしね。