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想念の立体化

加藤 豊 神父

 

 不思議なものです。

 

 ふと浮かび上がって来て、それがいつまで続き、いつ収まるのかも解らないまま、その浮かび上がるものに身を委ねているうちに、いつのまにか収まる、ということの繰り返し。

 

 なんのことかといえば、このコラムもそうです。他にも、思いが何かの形になるきっかけは、いつも、ふと浮かび上がってから始まります。それらはじっくりと考えた後に何かが出来上がるものとは、対照的に思えます。

 

 「気まぐれ」といえば「気まぐれ」で、これほどみずからが振り回されてしまうことはない。否「心」というものは基本的には気まぐれなのかもしれません。そしてときには「その人の心がその人を苦しめ」もする。しかし、単なる「気まぐれ」なものもあれば、自分でもよく解らないうちに何かの形になっていくこともそうそうないでしょう。気まぐれな「思いつき」といわゆる「直観」とは紙一重なのでしょうか。

 

 これまで「心」は「脳」の働きだと思われてきたし、それはその通りなのかもしれないのですが、最近は「内臓から生じる心」とか「臓器が保存される記憶」の研究をする人もいます(西原克成著「内臓が生み出す心」参照)。

 

 もちろんわたしには「直観」なんて崇高なものはおよそ無関係だと思います。しかし「心」が思い描く様々な風景は数々の詩人によって「言葉化」されてきましたし、「聖書」のことばもまた「古典文献学」的なアプローチからその反対のアプローチまで様々で、そのなかには「言葉化されているところの体験」が随所に描かれています。

 

 例えば、「復活」、ある神学者から(半ば非公式な場でですが)「イエスは復活したとしか言いようがないのです」と、まるで言葉の限界を嘆くような発言がありましたし、また別のある司祭は「わかりやすく一言で言えば(復活とは)イエスが今も生きているということです」と説明していました。

 

 言葉には、内容があり、それゆえ「言葉遣いがなっておらん」という指摘は公人への批判として多々あります。ただ、わたしのケースとは段違いの優れた書き手であれば内容じたいは伝わっていることがほとんどで、内容が伝わっているならいいのではないかな、と正直思います。根気よく「言葉の内容」すなわち「概念」や「定義」を仕事にしているという人もいるでしょう(もと学校の教師だった哲学者アランは丁寧な言葉の定義をしていますよね。それはそれでまさに大事なことですね)。


 しかし、もともと言葉にならないものを言葉化して使っている信仰の領域では、「概念」や「定義」も結局、体験(それがぼんやりとした追体験であっても)を全く伴わずに(また一人一人の体験を考慮せずに)正しい使い方であるとか、ないとか、言い切れないのがむしろ当然ともなりましょう(カントも「実態を伴わない概念は空虚である」と申しております)。

 

 「復活」や「来世」に関する物事を、特定の地上的なイメージで合理的に解釈し、(超自然的な次元を無視して)本当は、自分でもまだ漠然としているという人たちが言葉の使い方に言及するのは時として滑稽に感じてしまうことさえあります。「砂糖は甘い」とか「夏は暑いとか」(これは北半球のことですが)、それを体験している人がほとんどなので、誰も「砂糖は辛くない」という言い方は、まあ、回りくどい表現だから(特別な理由がなければ)いわないでしょう。

 

 ところが、「詩」は?感じたものを言葉化するには、確かに語彙が豊富なほうがいい。ただ、教育もままならない世界の子供たちにも、感じる心はあるのですから、彼らが感じたままを自分の知っている言葉で表現するのは言葉の使い方が正しいかどうかはともかく、とても素直なものでしょう(知らない言葉を無理に使うほうが虚偽となりかねないわけです)。

 

 「なんともいえない」思いをさせられたとき、その人はどんな言葉でそれを表現するでしょう。

 

 イエスの弟子たちの体験の言葉化に対して、現代人の一方的な捉え方しかしないなら、わたしたちはいつまでも聖書が読めないままかもしれませんし(実は原理主義もこの視点なのです。考古学的なだけの価値基準と原理的理解との違いは書き手の気持ちよりも「書かれた言葉を鵜呑みにする」か「いじくりまわす」かの違いですね)。時代背景、現地の文化や空気、その他諸々、しかもそこで起きた不思議な出来事と、それを経験した人たちの実感としての言葉とその言葉化、いろいろな角度で見ないといけないから余計に面倒に思え、なかなか馴染めないのが聖書なのでしょう。

 

 なんだか、こんなことを思い浮かべているうちに、思いもよらない形がまた一つ、これは困ったものですね。まったく。