· 

「心」が空間に喩えられるとき

加藤 豊 神父

 

 よく「心が広い」とか「心が狭い」という表現を(ごく日常的に)聞くことがあります。もちろん、この場合「心が広い」というのは、その人の寛容さが称えられるときに使われるもので、「心が狭い」というのは、まあ場合によっては「罵倒」でさえもありましょう。

 

 いずれにしも、面白いと思うのは、ここでは「心」を空間的に捉えていることです。ただ、それは現実の空間ではないので、「何マイルも広い」とか「何ミリしかない狭さ」という類の空間ではありませんね。そこには人類が長い歴史のなかで感じとてってきたこの世界の「もう一方の現実」が見て取れます。

 

 主観と客観という土台にこれを置くならば、これは実証的な自然科学の視点からはそれじたいが人間の「主観」となるでしょうし、逆に、人間社会に限定された関係性から観れば、明らかに「客観」です。要は、その人ひとりだけが感じるなら孤独な「主観」ですが、多くの人の心に触れ、圧倒的な共感を呼ぶものであれば、それは、たちまち「客観性」を帯びるものとなりましょう
(これは「マジョリティー」や「ポピリズム」を直接意味しません。「意見」や「考え方」のことではなく、極めて生理的な「感覚」のことです。それこそ北半球というパラダイムでは「夏は暑い」が客観的なことなのです)。

 

 例えば、入社時の面接でさえ、その会社の個性ともいうべきものがあれば、それはその会社の「主観」というよりは「基準」ですから「客観性」を伴います。とはいえ他の会社にはまた異なる個性があるでしょうからその「基準」は変わります。問題は、一定の秩序のうちに営まれる集団(教会もそうなのですが)において、甚だ孤立した状況におかれてしまう人たちの側にあって(特にそれに無自覚な場合ですが)、「自分はこう思うことは、いかなるパラダイムにおいても通じる感覚だ」と錯覚してしまうことで、その錯覚が相手の感覚を構わず集団内に介入した場合「それまでは曖昧だがなんとなく共通の感覚のうちに調和の取れていた集団間の客観性」に動揺が生じます。


 集団間の客観性に鈍感になれば、それに比例して特定の意見の主観性というものにも鈍感になりますから、本来は説得力を欠いたシングルタスクな一方的な主張も「隙間を潜って」なんだか説得力逞しく示されることにもなります。(実は客観性を欠いた)その「単眼的視点」が、先述の「曖昧だがなんとなく調和の取れていた集団間の客観性」を揺るがしてしまう結果、「混乱」は「パン種」のように膨らんで「一人一人の内側に不安や怒りが生じ」集団が崩壊に向かうこともあるでしょう。

 

 これまた、よくいわれることですが「マルクス主義者がマルクスを超えられない」などと聞きます。そしてこれまた、よくいわれることですが、「それは観念論の(一定の)妥当性を認めていた唯物史観の学派さえも修正主義に追いやられてしまった結果」と聞いたりもします。

 

 わたしはその種の専門家ではないから詳しいことはわかりませんが、「木を見て森を見ない」ことと同じくらい「森だけ見てれば木を見ずともよい」ということが問題なのは、専門家ではないわたしにもわかる理屈です。

 

 「人間社会における客観的現実」から生まれたであろう誰にとっても共通する「心」の空間的表現を思うに、「広さ」がなければ結局は「狭い」と評される人自身の不利益」にも(結果的には)なってしまうでしょう。こうした話はかつて「計る秤で計られる」という「みことば」をモチーフにどこかで書いていると思います(どこだったかな?)。

 

 最後に、わたしが尊敬する一人の先輩司祭の話をします。彼は車が好きで、どうも見ていると、結構大きめの車で狭い道を器用に走り抜けるのが上手です。「大きめの車で狭い道を器用に走り抜ける」様子は、彼の人間関係におけるきめ細やかさや、他者との距離の取り方や、ぶつかり合うことをよしとしない平和的な人柄を思わせますし、また、大きな車は社内が広いが、その「車内の広さ」は、彼の心の広さを思わせます。