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自分という重荷

加藤 豊 神父

 


 出勤時間帯に道端に寝そべって泥酔している男を横目に「ああはなりたくない」と通り過ぎる人。そう思うのはその人の自由ですが、そこにはひょっとしたら「見下す視線」が過剰に秘められた「傲慢」が背後にあるとしたら、ちょっと気になりますね。それだったらむしろ「無関心」なほうがやさしいくらいではないか、と思えてしまいます(無論もっとやさしい対応だってありますが)。

 

 ところで、ここで泥酔している側の人の心を想像して見ましょう。「なんだあいつ、人を見下しやがって、今の俺は惨めだが、どんなに惨めになったとしても『ああはなりたくない』と思ったのではないか?」なんて想像を。「想像」ですよ。でも、さもあらん「見解の相違」はこの世のいたるところに見られるものではないでしょうか?

 

 人の意見は様々なので、見下される屈辱と、見下す傲慢のどちらがどうだとはいえないが、見下すほうがいい、とそちらを選ぶなら、事によっては、みずからの心の醜悪さ背負う覚悟が必要でしょうし、見下されるほうがいい(まだましだ)とそちらを選ぶとしても、やはりそれなりの覚悟が必要でしょう。そしてその両方を選ばない、という人は、そもそもそんな感性に過剰反応することはありません。

 

 さて、この三者以外に、もう一つ「いいとこどり」をしたい欲求が強い人というのがいると思います。「やりたいことをやりたいならば、そのためにやりたくないこともやらなくちゃ」というくらい90年代初頭の若者たちには前向きな人たちが沢山(皆が皆では勿論ないが)いましたが(世紀末の不安な時代だったはずなのに)、むしろ彼らから見て人生の先輩たちに当たる世代の人たちに、「いいとこどり」願望がやたら強い傾向が見受けられるのは(皆が皆では勿論ないが)何故なのか(一人一人の円熟度には差があるということなのか)。

 

 いうまでもなく、前向きな若者たちに影響を与えたその時代の親御さんたち、また、学校の先生たちや、テレビや映画、それを無視することなどできないわけですが、いずれにしても「いいとこどり」はやがて「ないものねだり」を呼び起こし、「ないものねだり」は得たくても得られないままの状態が続くため「永遠の苦悩」の原因となり、それは「鬱」に繋がっていくから恐ろしいのです。

 

 こうした経過を経ずとも、既に「いいとこどり」の時点で相当苦しんでいる人が多いです。この「自分という重荷」を共に背負ってくれるのが主だ、と信じる信仰がキリスト教というものですが、「いいとこどり」の信仰という、あり得ないものが、現代人(現代日本人といったほうがいいのでしょうか)キリスト者の関心事となってしまっているとしたら大変ですね。

 

 泥酔する男性は時々見かけますが、寅さんは銅像以外見かけなくなりました。古き良き時代を懐かしむ豊かな情緒はわたしのような木石にはないですから、昔はよかったとはいわないし、寅さんの振る舞いを許さない管理社会に文句をいえるほどの気性など「飼いならされた世代」のわたしにはありません。ただ、寅さんタイプが生きていき難い現実っていうのもねえ、と思います。多様化する世界のなかで、どういうわけか多様性が価値観となり難いですよね。

 

 そりゃ、人生できれば苦労なんてしないほうがいいし、他人にも苦労させたくはない。できるだけ快適に平和につつがなく暮らしていければそれが何よりです。ただ、それを「ないものねだり」が壊してしまいます。賢かろうが、愚鈍であろうが、人間である限り、人間は迷って「いいとこどり」に惹かれ、「ないものねだり」を繰り返してしまうことがあります。

 

 しかし、大概は、「これじゃ不味いな」と後から気づきます。それに気づかないままでいたとしたら、「やりたいことをやりたいならば、そのためにやりたくないこともやらなくちゃ」という若者を前に、内輪受けしか気にかけない教会だったら魅力的には映らないのは無理もない、と思えてしまいます。

 

 だから一人一人の日々の回心が重要になってきます。どんなに崇高でアカデミックな宣教論が打ち立てられても結局は実を結ばない虚しさいに覆われてしまうのは、自分の実状を知る前に、それを無視して文字しか読まないからでしょう。こんなことを話しているわたし自身が、先ずは回心しなければならないですね。