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自分の声に掻き消され

加藤 豊 神父

 

 ユダヤ教は「語られた言葉を聞く」信仰、イスラム教は「聞いた言葉を実践する」信仰、禅は「ひたすら座る」、念仏は「ひらすら唱える」信仰といえるでしょう。では、キリスト教は?というと、ユダヤ教に連なるところがあるのは周知のことなので、やはり「聞くこと」を大切にする信仰です。

 カトリックでは「黙想会」というのもがあります。その内容は幅広く「完全沈黙」を徹底するタイプの「黙想会」もあれば、むしろ心を静かにすること、「想い」を「黙らせる」というえいいのでしょうか、「内的沈黙」を主眼に、多少は喋ってもテーマによっては結果に影響なし、というタイプのものもあります。

 

 いずれにしても、そのように「黙する」のは、「聞く」ためでもあります。しかし、こんにち教会内でも「あちら、こちら」でお喋りは聞こえます。それがコミュニケーションとなっていればまだしも、「自分の声に掻き消され」相手の声がまるで聞こえていないようなコミュニケーション不全が起きています。

 「人の話が聞けない」ことは、特に司祭や牧師にとって致命的なので、こうした訓練は、神学生時代から煩く言われるはずですが、信徒(プロテスタントでは「教会員」)の方々は、訓練ということではないが、普通に社会人として日常を生きておられるなかで充分に「聞く」能力は鍛えられてくるでしょうし、そうでないと人によっては仕事に関わることでしょう。

 「他人の話を聞けていない」人が周囲の人たちと協調を保てるわけがなく、皆がその人と仕事をすることに煩わしさを覚えることになっていきますが、こうした事例は「大きくは国家」から「小さくは個人」に至るまで、種々様々なところで起きてしまうことでしょう。気の毒ではありますが、この事例については「自分の声に掻き消され」て、「他人の話が聞けていない」ので、解決策は単衣に「内的沈黙」を身につけるしかないのです。実に、イエスが問題視なさった「偽善者」とは、この「他人の話が聞けていない」人といってもいいくらいなのです。

 以前わたしは千葉で働いていましたが、千葉には沢山の外国人信徒がおり、わたしがいた教会には、特にフィリピン人が多くいました。

 彼らが増え始めた頃、そこでは当然「文化衝突」ともいうべき、様々な次元のぶつかりあいがあり、それが初期段階、時を経ると、やがて次の段階に入ります。対立においては無論、日本の教会なので、日本人の側に圧迫も譲歩も委ねられつつも、譲歩が上手くいけば、両者の輪が出来てきます。日本人対フィリピン人の構造が、両者の友好派と「両側の仲良くしたくない派」という三者構造へと変化します。更に、もっと時を経て、そこに定住組外国人と、一過性外国人という、片側の二項対立が起きます。

 もう片側である日本人は「地元組」か「引越者」かということではあまり対立構造にならないものの「外国人の側に立つ日本人」と「日本人の側に立つ日本人」という別れかたをしていきます。

 この「外国人の側に立つ日本人」のなかには、やがて、かなり極端な人も出てきます。例えば、何かのことで、外国人には不都合な日本の教会の側の現実について、相手に理解を得なければならない場合には、そういう人は「間に入ってくれる」ので、普通はありがたい存在なのですが、極端な人だと、「彼ら(外国人)は納得しておらず、結局はこちら(日本人)の都合に過ぎない」という批判が発せられます。

 司祭たちは「だったら」とばかり、そこで直接、外国人一人一人に詳しく彼らの言い分や抵抗感などを聞いてみたりします。そうすると、実は案外、そこで理解し合えることも多々あるのです。しかし、それでもなお、極端な人はこういいます。「直接、神父さんから問い詰められたら(外国人たちは)、はい。というしかないじゃないですか」と。

 んん、これではいったい「誰の弁護を」し、「誰のために」、「誰と戦っている」のやら、という実態が浮き彫りとなってきます(もっとも、こうした現象が見受けられるような段階になっているとしたら、外国人司牧の現場において共同体的な一体感はほぼ全体的にほぼまとまってきているともいえるんですけどね)。ただ、ハッキリとその人たちが自覚しているのは、「異国においてハンディキャップを負っている弱い立場(イメージとしての外国人像)の人への手助けをしているんだ」という自己意識です。本当にそうならいいのですが、往往にして「はじめから結論ありき」の局面が有り過ぎるので、やはり「自分の声に掻き消され」て、声なき声が本当は聞こえていない状態に陥っている、といわざるを得ないのが、こうした傾向に囚われてしまった人たちなのです。

 「偽善者よ、先ず、自分の眼にある丸太を取り除け」とイエスはおっしゃます。これを聞いて「もしかして自分も」とほんの少しでも思える人は幸いです。そう思えている限り、その人は周囲から避けられたりせず、人と人との間で、打算で終わってしまうようなお付き合いに晒されることもなく、人のなかで幸せに暮らせます。しかし「兄弟の目の中にあるおがくず」しか気にならない人は、なんと惨めな。

 声なき声、風の中から静かに囁く声(列王記)、天からの声、これらは今日も「自分の声に掻き消され」てしまうほど「細やか」なものです。その「細やか」で「自分の声に掻き消され」そうな声を、「キリスト教」の信仰は「聞く」ように願うものであります。