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いっそのこと

加藤 豊 神父

 

 日本では、いっそのことカトリック教会も「神社やお寺」のように一般受けする形にしてみたらどうだろうと考えるのは、わたしだけではありませんでした。日本での司祭は少人数ですから狭い世界です。まさかそんなことを考えている人はいないだろうと思っていたところ、なんと〇〇教区におられました。それは〇〇神父様!

 わたしは時々、こんなことを妄想します。聖書は難解だし、教義は何かとっつきにくい、典礼はどうも煩瑣だ・・・。だから、それらを「奥義」として一旦棚上げして、献金寄付者の名前(個人名や会社名)は玉垣?に刻み、聖人を根拠にして厄除けや開運などのご祈祷を薦める。さらにご聖体訪問は「お詣り」と呼んで、とにかく「わかりやすく」日本人の信心深さに呼応した宣教を展開してみてはどうかと・・。

 

 もちろん本気でそんなことをする気はないし、できないとは自分でも判ってはいますが・・〇〇師だってそうです。実際、それらしい何かのアクションを起こしてしまうなら、その結果として起こる驚天動地の大問題は容易に想像できます。教区司祭は、自分が任命された責任範囲でしか動けません。それに司祭は司教に従順を誓っているので、勝手なことは出来ません。なにより、カトリックは日本での歴史は浅いとはいえ、歴とした伝統宗教ですから、御利益(ごりやく)を前面に押し出して唱えるのも要注意なのです。

 とは言うものの、日本の宗教事情(習俗事情というべきか)を見ると、土着化を徹底させようとするなら、教会内の通説としてよく言われる「カトリック教会は敷居が高い」ことが(無論お高くとまっているように見えてしまっては庶民的とは言えませんが)「敷居を低くすれば浸透する」などというのは殆ど幻想ではないかと、わたしには思われます。
 
 ここで言われる「敷居の高さの克服」は、ただの世俗化を意味する感があり、それでは「相手を見下した反省となってしまうのではないか」と思うのです。これは結局は自分の物差ししか持っていなかった、という裏付けになってしまうでしょう。確かに、舶来趣味の人のための教会というのはそもそも福音的価値観からはナンセンスです。ただ、それも多くの日本人にとって一種の特徴となっているのも確かです。長崎では、これらに調和がとれているのだから敬服です。しっかり庶民的だし・・・。

 わたしも〇〇師も周囲にとっては、かなり受け入れにくい考えの持ち主で、保守的でもなく、進歩的でもなく、社会派でもなく、学者でもないし、少数派どころか、ただの変わり者かも知れません。

 寺院では、仏陀の崇高な教えを前面に掲げているかといえば、そうでもなく(教えはアイデンティティから外さないものの)、普段は庶民的でわかりやすいことをやっています。神社もそうですし、新興宗教なら猶更ご利益が前面に出てきます(否、下手したらそれだけで終わるでしょう)。何も他宗教の真似をする必要はないし、そうしなければ庶民的でない、などとは言いません。

 ただ、現実に司祭としてカトリック教会に関わっていると、誰もが  感じると思うのですが、公的行事よりも「冠婚葬祭」が、聖書よりも  「伝承に関する部分」が、秘跡よりも「準秘跡」が求められているような現実はあります(また、それらが未整理でごちゃ混ぜになっている)。

 解りやすいのは「行事」ですが、ともすればレクリエーションに落ちてしまうので、常に新しい刺激が求められ、とどのつまりは「最近の教会は楽しくない」という不満が出てくるに至ってしまい、「面白い」とか「楽しい」ということが大事な信仰ではおかしいと言わざるを得ません(娯楽を求めるなら世俗の方が豊富です)。だから精神的に深いものに救いを求める人は、欧州では神秘主義的な ニューエイジに鞍替えするし、日本では(一見、神秘性を帯びた)新宗教に惹かれるようです。

 いま教会の「日本化」は難しいかも知れません。日本!日本!と宣っていると政治的にも右派のように誤解されるようなことにもなります。では「庶民化」はどうかというと、これは更に難しく思えます。なぜなら、そういう庶民感覚は、日本のカトリック教会の弱点であるかのように(上述のさまざまな事由から)思うからです。

 20年近く前、わたしが働いていた教会に車の部品を作っていた人が、入門講座を受けていました。無事洗礼までたどり着いたんですが、会う度に「自分が来てもいい場なのだろうか?」と彼なりの空気を感じ取っているようでした。また、千葉にいた頃、お世話になったあるシスターは、こんなことを仰っていました。 「わたしはもう何十年も修道生活をしてはいますが、未だに、(日本人として)キリスト教というものに(部分的にだが)違和感があるくらいです」と。

 上記の二人は決して信仰のない人たちではありません。むしろ信仰に真摯に向き合っていた人と言えるでしょう。これらは、一つには(定着までの)歴史と時間が足りず、どちらかと言えば遠藤周作さん的な問題で、もう一つには身近で庶民的なものを軽視した感性の問題が、等閑にされているからだろうと思われますが、皆さんはどう思われますか?

 いずれにしても、わたしも〇〇師もどこからも認められない危ない奴なのかもしれません。(笑)