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わたしが受けたもの

加藤 豊 神父

 

 カトリックの伝統ともいうべき「小さき者」としての受諾が様々な所で語られるのを、皆さんも聞いたことがあるはずです。有名なのは米国のプロテスタント神学者ラインホルド・ニーバーの一般的には欠点と思えるようなものも福音的視点からは「恵み」と感じられるようなものがあります。

 

 もちろん、自分の欠点を自分で需要し、一旦は「自分自身との和解」を得て「心に落ち着き」を覚えることが出来てもなお、結局「欠点」は「欠点として」そのまま残っていますから、その後もやはり、周囲の人々に迷惑をかけたり、相変わらず自分自身が苦しむことも沢山あるはずなのです。

 

 そういったこともも含めて、自分では「変えられないもの」を素直に受け入れられるようになれば、それじたいが賜物として感じられ、その人には更に一層の落着きが備わると思うのです。ご存知の通り、わたしには持病があるうえ、優柔不断な性格で、これまで色々な人にご迷惑をおかけしてきたと感じています。 ただ、そのために、お世話になっていることへの感謝が生まれ、謙虚さを戴いた気がします。

 

 自分の欠点を指摘されても無闇に怒りに駆られることもなく済んでいるし、病気になって以来、無理ができないばかりか、司祭団という集団のなかでもお荷物の如きで、足を引っ張るようなことがどれほどあっても、なんとか認めてもらえています。特に友人に助けてもらう場面が種々あり、まことに有難く思うことばかりです。こうなると、もう誰のことをも安易に批判できる立場ではありませんから、「裁く」こと自体が、わたしには恐ろしいことになってしまいます。なぜなら、抱えている欠点によって自分が裁かれる側であると自覚していれば、安易に相手を裁くことは出来ません。


 では、それでいて、そのような状況に不満を抱くか・といえば、不満が自分を蝕むことを思うと、むしろ「裁かれる自分」を受け入れることの方が平安でいられるのではないか、と思えるのです。


 「善きもの」とは何なのか、基準は「主」にしかわからないのではないでしょうか。今迄「頑強な身体と堅固な意志」に恵まれていればと、どれほど望んだか知れません。「頼りになる奴」になりたいのに、わたしは助けてくれる人に頼るしかありません。これが「ありのままの自分」であるなら、これを恵みとしてを受け取ることが出来るような自分となっていくことが出来ればその方が幸いかもしれない、と思うのです。ですから、今の自分は、これまでの自分とはまた違ったベクトルを傾けて御旨に叶うよう生きるこが最善なのかも知れないのです。