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「一人一人の(ための)教会(の共通善)」は 単なる理想か?

加藤 豊 神父

 

 「ゲットー」をご存知だと思います。かつてユダヤの人たちは、欧州で暮らすなか、弾圧を逃れ、また、むしろ追いやられ、「ゲットー」に身を置いていた時代がありました。種々の資料により、異なる点があるかも知れません。わたしも知らないことを語るようなことはしたくないし、まして「ゲットー」の話題はデリケートな面で覆われていると思うのです。

 ポーランド人教皇だったヨハネ・パウロ二世(人間カロル・ボイティワ師)の少年時代、遊び相手はユダヤの子供たちだったようです。ポーランドは、まことに今も昔もユダヤの人が多いことがわかります。わたしも一度、ワルシャワやバドヴィゼ、クラクフなどに行きましたが、ワルシャワの宿泊施設には、ユダヤの青少年たちの姿が目立ちました。「キパ」を被っているのですぐわかります。

 さすがに、もう、どこにもゲットーなどありません。ポーランド国内のアウシュビッツの内情の報告をめぐる細かいイザコザも話し合いで解決に向かうかも知れません(ユダヤ人死傷者数やその他の民族の被害数の問題など)。

 ただ、どうなんでしょう。

 見えないゲットーのようなものが、ユダヤの人々と欧州の人々との間にまだあるのかも知れない、と思うようなこともあります。また、このゲットーにも似た、人間相互の「あちら側」と「こちら側」との切り離しが、見えない形で世界中にも、身近なところにも、あるような気がします。

 人によっては、どちらかを無意識に選び、どちらかへと無自覚に閉じこもり、みずから理解する必要も、みずからを理解されようとする必要も、等しく感じておらず、限定された範囲と狭い意識に、安住してしまってはいないだろうか、と。それだけならまだしも「範囲外の人たち」は「自分に値しない」などと考えているのではないか、と、思えてしまうこともまたあります。

 「あちら側」と「こちら側」、これが左右前後ではなく、上下に並べられた場合(誰が並べるのかは知りませんが)「カースト」に例えられることがあるのでしょう(誰か有名な人がそうしていましたが)。もっとも、それらをして、「ゲットー」や「カースト」に擬えるのは、決してこうした比較に妥当な表現とはいえないという自覚は必須でしょう。

 世界史におけるユダヤの人たちの苦難に満ちた実例に思いを深めるとき、わたしたちは、そこに人類の特徴としての「紛争を避けたいと望むがそれを達せられない根源的で避けがたい何か」ともいうべきものを見出すことができ、誰であれ「人」にはそれが潜んでいることに気づかされます。これが「業(ごう)」というものなのか、「罪」というものなのか、わたしにはわかりませんが、遥かなる歴史はわたしたちに今日も伝えようとしている心痛む教訓の一つが「ゲットー」なのではないかと思います。

 最近、よく思うことがあります。

 コロナ禍で、あらゆることが浮き彫りにされました(実は以前からですが)。例えば、所属教会を「自分の教会だ」と思うことは正しい。それが帰属意識です。しかし「自分だけの教会」であってはならず、「自分が優先されるべき教会」であっては絶対にならないのです(どんなにその人が善いことをしていても)。

 ところが「一人一人の教会」は、およそどこの小教区でも、「あの人たちの教会」や「この人たちの教会」となってしまうのが教会自身にとって不本意な実態でもありましょう。その改善は「あの人たちの教会」から「この人たちの教会」への移行でもなく、「この人たちの教会」から「あの人たちの教会」への移行でもあり得ません。「一人一人の教会」とならねばなりません。しかし、それは理想論ではないのか、と、そんな思考がふと脳裏をよぎります。しかし、少なくとも(だとしても)それに向き合う必要があると思います。

 「紛争を避けたいと望むがそれを達せられない根源的で避けがたい何か」に照らせばそういえることなのかも知れませんが、実はそういう事実を認識しようとする営みがまさに信仰の一面で、そのために「ありのままの世界」はどうなのかを、先ずは知って向き合おうとするのです(「知るだけか」と問う人もいると思いますが、先ずは「知る」ということなのです)。

 さて、人間の現実をもその懐に抱ける包括力こそカトリックの本領であろうから、それに立脚するなら「一人一人の教会」は理想論のようには聞こえても、それは理想であるどころか「真実」でしょう。逆に「あの人たちの教会」や「この人たちの教会」や「自分だけの教会」や「自分が優先されるべき教会」などに甘んじたまま、それに気づこうとしないこと(というか、あまつさえ「見て見ぬ振り」をして)そういう傾向が「自分にも当てはまらないかと問わぬままでいる」こと、これこそが「真実」からかけ離れた「的外れな理想論」「タチの悪い幻想」への埋没となりましょう。

 「教訓は何の役にも立たたない」のではなく「教訓を役立てようとしない」こと、それは「タチの悪い幻想」に気づこうとしないことです。更に重要なのは「地上の教会」に関する「あれこれ」というだけではありません。最終的には「救い」の問題に繋がることなのです。そんな終末的な視点から見れば誰にでも、「真実」と「タチの悪い幻想」(また「的外れな理想論」)との見分けが容易に着くと思います。