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常設展示と期間展示

加藤 豊 神父

 

 以前わたしは(若い頃)広告の仕事をしていたことがあります。

 

 顧客から頼まれたものを直接会場に納品し、納品のときにはそのまま設置作業を伴うものもありましたから、その場合はもう展示されるのです。納品された展示物には、常設展用と期間限定展示用の二種類がありました。更に、顧客から急に決まった変更を言い渡されると、緊急展示のようなことが行われる為、応急処置用の品を急いで納品・設置となったことも少なからずありました。

 

 あれから何十年も経った今、当時の景気回復策のように繰り広げられた公共事業や各地の〇〇博物館や△△記念館などバブル期の建造物も、それ自体が一過性の「期間展示」作品のように見えてハッとさせられたりします。その時々の地方活性化のための施策は、それが本当に必要だったか否かはあまり意識されていなかった感があります。とにかく、事業計画に基づいた経済効果を中心に人と資金を回転させ、絶えず動いていること自体が良いことなのだという発想が(経済成長面から)重視されていたのだろうと思います。

 

 ところが、こんにちの教会もこれと似ています。

 

 各教会はそれぞれのポリシーに基づいて活動し、信者それぞれが教会の活性化のために人と資金が回転していることに安心感を覚え、上から降りて来るテーマを受け取っては、それを契機として絶えず人が動いていること、そこに成長の実感と「手応え」のようものを感じていたのかもしれません。もちろん、これが教会ではなく実際の博物館や資料館なら「手応え」となるでしょう。しかし、教会の本来の使命はどうかと言えば、その目的と手段は違うのではありませんか。

 

 そもそも、この形は、戦後の物のない時代に、地域密着型の教会バザーが予備宣教の役割を果たしていたり、米人宣教師による英会話教室がそこに通う人への教会紹介の役割をしていたりという、いわば初期段階の「これから始める」時代の方法論、言い方を変えれば、まだ日本の教会の規模が極小で、基督教が伝統宗教ではあっても外来で、連合国側の文化として、余り当時の日本の庶民には浸透していなかった頃の教会の姿と言えるでしょう。

 

 相変わらず旧い時代のスタイルを模倣し、規模が大きくなった分だけ増量されて、人材と資金を投入することが続けられてきたのは否めません。不思議なのは、バブル崩壊を予想していたような人たちも、教会のこうした一過性に次ぐ一過性という拡張思考には必ず臨界点があるというところに(一部の人を除いて)気づいてはいなかった、ということなのです。

 

 「一過性に次ぐ一過性」という方法論は、教会であれ博物館であれ「期間展示に次ぐ期間展示」という「期間展示中心の鑑賞者増加を狙った事業展開」のようであり、関係者たちはとにかく「何かしていないと先が不安」という心境に陥ります。しかも、コロナ禍で閉館が続いた展示会場は、ミサが中止されていた期間の教会にも似てこれはあたかも「展示会場に行けなくてもネット配信で展示物を見る」かのような、ミサの中継の需要がいや増した状況に酷似します。こうして、コロナが緩和されつつある現在の状況になれば、これからどうすべきか、皆が悩み始めます。「一過性に次ぐ一過性」の時期に慣れ親しんだ?「期間展示中心で鑑賞者を増加させる」思考に慣れきってしまっているからです。

 

 しかし、まともな博物館や記念館であれば、〇〇博とか、△△展という特別企画ばかりしているはずはなく、そもそも、歴史博物館や郷土資料館なら目的はハッキリしており、「毎回、何か特別な企画がなければ存在意義を失う」などということは先ずあり得ないはずなのです。その館が再開される際、その館の目的が明確なら、原点に戻って始めるのは当り前で「これが当方の常設展示物です」といえる確かなものから展示を構想するのは当然なのです。

 

 ところが、新たな刺激や賑やかさから評価される活性化(バブル期的で臨界点を考慮しない成長思考)に、手応えを感じ続けてきてしまった教会は、未だに「みずからの存在意義を振り返るなど退屈この上ない」とばかりに、かつての方法論や大昔に賑わいを呼んでいた現状維持に連なる模索を繰り返しては、相変わらず「一過性に次ぐ一過性」の「期間展示中心&鑑賞者増加案」という打算的路線に、多くの心を向けたままなのであります。

 

 古き良き時代は確かに懐かしい。でも、わたしたちはこれからも(世の終わりまで)信仰を絶やさないようにしなければなりません。その意味で「うちはこれでいく」という割り切りの良さが肝心です。そこには派手さは無いかも知れないが、それはやがては実を結ぶ、ということを知っていれば、それまでの教会の方策がどうあれ、博物館でいうところの「常設展示」を大事に歩んで行けばいい、とすぐに気がつくはずなのです。

 

 教会の常設展示が何に当たるかを知っている人であれば、「期間展示」の繰り返しや焼き直しは、結局「一過性に次ぐ一過性」に過ぎません。しかし、それしか意識されずに来てしまったところが多過ぎて「教会って期間展示的な企画を絶えず繰り返すところでしょ」という理解の人も珍しくはありません。

 

 いったい「何のため」の人集めなのか?「何のため」の盛上がりなのか?「何のため」の拡張なのか?博物館や資料館の鑑賞者増加という目的なら、まだ方法論としては理解できるとしても、これに教会を当てはめてみるとき期間展示のような企画ばかりに夢中になってきてしまった教会において(繰り返しになりますが)「教会って期間展示的な企画を絶えず繰り返すところでしょ」という理解の人が沢山現れるのも無理からぬことです。

 

 人間弱いもので、つまらなければ去って行き「サービスが低下」すれば不満になります。そこで、一人でも繋ぎ止めておきたい教会は、みずからの存在意義(いわば常設展示)を差し置いても、その人たちにいい顔をして人が離れていくことを避けてきました。何やら大檀家離れを避けたいお寺さんのような態度と似ているかもしれません。しかし、ここへきて漸く日本のカトリックでも「生涯養成」の必要性が議論され始めたわけです。

 

 わたしはこれを「信仰の活性化」のための対策と呼びたいと思っています。