加藤 豊 神父
皆さん、主の御復活、おめでとうございます。
ところで「復活は本当いあったのか?」などという問いは、「イエスの復活当時」から既にあった疑問です(つまり遠の昔から)。パウロは「コリントの信徒への手紙」の中で、しっかりと書いています。「あなたがたの中で死者の復活などない、と言っている人がいるのはどういうわけですか」(1コリント15:12-13)。更に「死者はいったいどのように復活するのかと言う人がいるかもしれませんが、愚かな人だ」(同15:35-36)と。だいたい科学的に説明できたら「神秘」ではないでしょう。現代人の知性では割り切れず実証が不可能だからと言ってそれを「信じる力がないことの言い訳」にしてはいけないでしょう。
そして、これが一番大事なことですが、私たちは、復活者キリストの「脈」がどうだったとか、「心拍数」がどうだったとか、そもそも、そんな話はしていません。「現象」がどうあれ、何より重要なのは「イエスが何のために世に来られ、何のために復活と呼ばれる出来事を体現されたか」なのです。「目的」よりも「現象」の究明に夢中になったり、「信憑性」(何の信憑性だか知りませんが)という観点から「信仰」というものを評価するような視点が、現代社会において圧倒的なのです(人それぞれですから、それ自体が悪いとは言わないが、教会への偏見やあらぬ誤解があるのは事実なのですから、思うところを書いてみました)。
それは現代人の科学万能的思考(科学者に学閥という非科学的な人間臭さがあるにも関わらず)によるものだったり、「昔の人より今の自分たちの文化の方が優れているに決まっているという思い込みが(本当に優れた文化を持っているなら何故不幸な事態を回避できないのか)いかに強いか、ということなのです。
子供の頃(特に思春期には)私もそんな価値観で聖書を見ていましたから、日本聖書協会口語訳「聖書」の前書きというか「序」を見て反発しました(詳しく話しませんが誤解を避けるために、私は幼児洗礼ではないことを付け加えておきます)。そこには「聖書に書かれていることはすべて真実で・・・」と書かれていました。そのとき、私はこう思いました。「奇跡や預言は現代の自然科学や物理学に矛盾することはかりし、なんでこんなこと」と。まして、もう高校生くらいになれば「唯物史観」の影響も随分と受けてしまうように教育されてしまうわけですから(今は判りませんが昭和の後半は)キリスト教信仰というものに批判的な考え方をしてしまうのは無理からぬことです(学校では歴史の授業を通して、ミッションスクールはともかく、そうでなければスペイン・ポルトガルの大航海時代から欧米列強に誇る植民地政策とキリスト教の関係も、アジア・アフリカの人々を躓かせるに充分な教会の過去であって、それこそ真実なのに、と)。
ところが、私が甘かったのです。何年か後にもう一度、日本聖書協会口語訳「聖書」のはしがきを見たときに、ハッとさせられたのです。「聖書に書かれていることは『人間の救いに関して』すべて真実で・・・」。「人間の救いに関して」。そうです。聖書は科学の本ではありません。そんなことは、大昔の人だってわかっていて、古代にも物理学あり、天文学あり、アルキメデスやデモクリトスがいたわけで、現代的な科学的知識がなかったから直ちに迷信的だと言わんばかりの信仰理解は、現代人の思い込み以外の何物でもないですね。
新約聖書はたった2000年程前のものです。その頃にはもう現代科学の基盤となるような原子論や数学はありました。福音書を書いたルカは医師でした。いわゆる「地動説」も一説には教会内にとっくに知られていたが、それをちょっと紹介しますと、「教会の権威に混乱が生じる可能性があったので(現代でいうところの軍事機密のようなものだったので)コペルニクスはその事情を理解し、自らの学説を引っ込めた、というわけです(認めたくない人もいるでしょうけれど)。だって宇宙開発に無縁だった人々にとって、地球が太陽の周りを回っていようが、そうでなかろうが、生活に影響がない限り、そんなこと、どっちでもいいことですから。
だから「復活」が実証主義的な証明に至ったところで、そんな現象は「信仰」においては、まったく重要ではない(そういう研究が進むことには不肖わたしも心理探究者の一人として期待はしますが)。しかし、「復活」を信じ続けてきたことで「それによって救われてきた人たちや、その深い意味を知り豊かな人生の価値を見出してきた人たち」が、現にいたのだから、それは「救い」にとって何よりも重要な「体験的事柄」、「目的」から捕えねばならない類のものなのです。これまで散々「誰かが普通に疑問に思ったこと」なんて、そもそも最初から「誰もが常に疑問に思ってたこと」なのです(これも当たり前のことなのですが)。
ダン・ブラウンは新しくも何ともないし、あれくらいで躓く信者はよっぽとの原理主義者でしょう。エンターテインメントとしても素材が古臭く、異なるパラダイムをわざわざ意図的にごちゃ混ぜにしてそれらしいストーリー展開に仕上げているだけで、ショッキングでも何でもないと思います(流石に「突っ込み」を入れられたら格好がつかないと思たのか取材はしっかりしてるみたいですが)。正直言って、あのレベルでは「偉そうな言い方になってしまい、すみません)週刊誌ネタですね。それに「今更、科学対宗教ですか。これまで度々、科学のメスが容赦なく入った聖書という本や大聖年の回心までの教会の歴史と不完全さについての自覚の営みを、あなたは、ちっとも知らないんですね」と言われるだけでしょう。でも、ひょっとしたら国内の文系も稚拙です。某有名大学名誉教授の某師も、ダン・ブラウンみたいなキリスト教理解です。名のある人ほど発言は重いのですから、根拠がはっきりしていない中傷めいたキリスト教の解説は控えてほしいのですが(と言っても、もう亡くなった方なので)。
だから皆さん、私たちの信仰の原点を、今年も声高らかに(コロナでそうもいきませんが)祝いましょう。
(これは「教会だより4月・5月号の加藤神父の記事です。「さくらまち」は現在、コロナ禍の状況が更に落ち着くまで休刊しており、代わりに「教会だより」が信徒の皆さんに配布されています。)