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目的喪失を憂う者なし?

加藤 豊 神父

 

 どこの教会でも、また近年に限らず、よく、教会人たちの間で、こうした話題が囁かれます。

「ミサの前後が私語で騒がしい」逆に「雰囲気が暗い、香臭い、もっと賑わいに溢れたミサが良い」などなど。

 

 子供が多い教会などでは、よく、前者のような囁きが多く、それはまたミサ中も然りの状況となりますから、静かに祈りたい人に囲まれた、小さなお子さんお連れの親御さんたちは、かなり周囲に気を使われておられるのが見ていてわかります。

 

 後者は逆に「最近若者の姿が教会には少なくなった」とお嘆きの方々に多いのではないでしょうか?しかし、これらは人それぞれの趣味的傾向性を伴って感受される話題なのは言うまでもないことです。ここに欠けているのは、どちらが「いい、悪い」といった基準ではなく、「そもそもミサとは何か」という基準からの判断です。

 

 前者のようなケースでは、わたしはクレームが上がった場合、こうお答えしたりすることがあります。

「もとより、ミサは共同のお祈りなので、人が沢山いらっしゃる際には、耳の遠いご高齢の方も、お子さん連れの方もおり、多少ざわざわしているのは当然といえば当然、ともいえます。ただただ、私的に静かなミサに『与りたい』というときには、どこかの修道院のミサにお出になるほうがよく、小教区の一番人の多いミサに、寂静志向をお求めになられても、そうそう、理想通りにはいかないのではないでしょうか?」と。

 

 更に、後者のようなケースでクレームが上がった場合はこのようにお答えすることがあります。

「お気持ちは、わたしにもわかりますが、若い世代といえば、あなたのお子さんも同世代ですよね。普段教会に来ておられますか?それに、その人たちが、例えば学校や職場の人間関係で悩むとき、教会が彼ら(彼女ら)の救いとなるようなメッセージを有しているというその内容を、あなた自身が提示してあげられますか。ただただ、行事の手伝いにだけ教会に来い(あるいは親のメンツを立てろ)、なんて随分、一方的な主張ではないでしょうか」と。

 

 哲学者カントは言っています。「人は人を目的とすべきであって、自分の為に他人を利用する(手段とする)ことがあってはならない」と。司祭や修道者は特に人から「利用」されることが多いです。ときには人寄せパンダのように使われますが、わたしはそれでいいのだと思います。しかし、それで集められた人たちは、集めようとした側の人にとって、「自分の為に利用された他人」となってしまうのですから、その場合、身勝手な動機に司祭や修道者が結果的に加担することになってしまうでしょう。気をつけたいものです。

 

 今や、「そもそも〇〇とは?」を皆で考えなければならない時期が来ました(初めからこれを考え続けていた人たちも沢山いたが、コロナ以前は考えずに済んでいた状況、環境、にあっただけで、本当は常に振り返りが必要だったわけです)。「こういうミサが良いです」とか、「こういう活動をしたいです」とか、「こういう教会がいいです」とか、それらは各人の思いとして否定されてはなりませんが、いま一番重要なことは、文字通り何が重要かということです。

 

 「こういうミサが良いです。」

 「なるほど、で、そもそもミサとはなんですか?」

 

 「こういう活動をしたいです。」

 「なるほど、で、そもそも教会の諸活動って何が目的なのでしょうか?」

 

 「こういう教会がいいです。」

 「なるほど、さて、そもそも教会ってなんのためにあるんでしょう?」

 

ということですよね。