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「説明すること」は「教えること」とは異なり...

加藤 豊 神父

 

 昔からよく、「頼まれてもいないのに他人の教師になりたがるのは人間の病気の一つ」などと言われています。この病に一番気をつけねばならない職業のなかに、多分、神父も入ると思います。気をつけたいものです。

 

 こうした現象を詳細に見ていくと、ちょっとした法則性があることに気づかされます。無論、完璧な人間はいませんが、概ね、「教えることを好む」人というのは「教えてもらうことを嫌う」傾向があり、概ね、「教えることが上手な人」は「教わることが下手な人」だったりします。何故かはわかりませんが、その人のプライドのようなものが関係しているのでしょうか。解りませんが、ただ、「見ていると」、どうも、そのようなのです。「喋りたいだけの人」はまことに「他人の話を聞くことが大の苦手」のようです。

 

 例えば、役所が「ゴミ分別の説明会」を主催するとしましょう。そこで地域住民は実生活に関することだからと多くの人が聞きに行くでしょう。でも「面白い話」ではないわけです。この世には、奥さんがいないと自分では何もできないご主人(そういう場合も男性のほうを「主人」と言うのかな?)がいて、「ゴミの分別なんて俺は興味ないからお前行って来て」といって、こういう問題から逃げちゃう旦那さんも沢山いると思うのです。

 

 「教会の土地建物や設備、各教会の運営上の諸注意」など、面白い話であるはずがない。そんなことは、主任司祭が一番自覚しております。しかし、こうした話を繰り返ししていかないと、「かえって皆さんの信仰生活に関する保証が揺らいで行くことになります」と、丁寧に説明する必要が当然あります。だから、「つまんない」とか「昔はもっと簡単に思い通りに出来た(使えた)のに」といわれても、結果的に嫌われようとも、情報公開を活発にし、現実を知ってもらい、「そうか、いま、うちの教会はこうなっているのか」と、根気よく一人一人の方のご理解を得るようにすることが、いまのわたしの勤めでしょう。

 

 時代は代わり、日本の法律も、税に関する問題や、皆さんの大切な献金をお預かりするものとしては、金融の変化にも説明責任はあり、次々と、世俗との折り合いをつけ、カトリック教会が(教会は、わたしたちの身内の論理だけで動くカルトではありませんから)この日本社会で健全に機能し、主が再び来られるまで信仰を守り抜かねばならないのが、わたしたち「地上の教会」の使命です。

 

 「いま、どうなっているのか」是非、皆さんにそれを知っていただき、「俺には(私には)全てわかっている」という、この考え方が、いま、一番、正確な立ち位置を失わせる思考となってしまうのです。不肖わたしが大上段に立って、偉そうに「教える」のではありません。「説明」です。「教えられたくないタイプの人」は、先ずこの点にご留意ください。

 

 役所の説明会は「講義」であるはずがありません。それでも「一々うるさいなあ」ということなら(嫌なら)低姿勢にこう申し上げましょう。「直接に影響しないとしても、教会の建物をご使用なさるでしょうし、税法上の制約もあるので、大事なことだから、何卒ご説明させてください」と平伏します。