2020年6月14日 キリストの聖体(祭日)

ヨハネによる福音書6章51節~58節

 

主任司祭

加藤 豊 神父

 

遺言と形見

 

 これを読まれる方の中には「またその話か」と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、わたしは繰り返しこれをお話ししたく思います。

 

 福音書のメッセージは、いわばイエスの「遺言」です。「わたしの記念としてこのように行いなさい」といわれたわたしたち教会は、その遺言に基づいて「主の死を思い、復活を賛える」という営み、即ち「感謝の祭儀」を2000年以上の長きに渡って続けてきました。もっとも、復活者キリストは「いま」を生きておられるので、「生きた遺言」という言い方をしたほうがいいかもしれません。

 

 それを繰り返し行い、繰り返し伝えるようにという役割を賜ったわたしたち「教会」は、いわばイエスの遺族なのです。これまた「いまを生きておられるイエス」の「いま生きている遺族」という言い方ができると思います。

 

 更に、わたしは秘跡はいわばイエスの「形見」だと思うのです。だから「聖体拝領」はいわば「いまを生きる遺族」の間で「分かち合われる」その「形見分け」だと思います。

 

 従って「感謝の祭儀」すなわち「ミサ」は、教皇様がおっしゃる通り「社交の場」ではありませんし、しかも一歩進んで「ありがたい気分を獲得するために集う自己救済の場」でもありません。勿論わたしたち教会自身がイエスの遺族として救われていなければならないのはもっともですが、おそらくわたしたちは他の遺族にはあまり気を配らず、自らの気分の良さを追求してしまう弱さを誰もが持っています。

 

 現代人は快適さに慣れており、遺族の集う場をして無自覚なうちにサービスの充実を求めてしまう。しかし、真の救いとはこうした他者性を欠いた自己の存在という一種の「囚われ」から解放された安心感であり、それは何か特別な努力や修行によって得られる類のものではないのです。

 

 実に単純素朴な心がけと主への信頼に由来する平安なので、多くの場合、急激な心境の変化を伴わないのではないかと思います。もっとも劇的な回心を体験する人だっていないわけではないでしょう。ただそれはやはり珍しいことですよね。わたしはそういう経験はないのですが、それでもいつかきっと積み重なってときが来ると信じて今日も「遺言」と「形見」を皆さんと一緒に受け取ろうと思います。