2020年6月7日 三位一体の主日(祭日)

ヨハネによる福音書3章16節~18節

 

 東京教区司祭

油谷 弘幸 神父

 

新たな希望に招く三位一体

 

 

 ちょっとしたことがきっかけとなり、周りの状況や心持が一挙に変化する、という出来事は、私たちの日常に珍しくないことだと思う。気分や機嫌がいっぺんに変化する。あたりの景色が一変する。時にはモノの考え方、価値観、認識さえ覆る。

 

 小説でも度々この経験をモチーフとした作品にお目にかかる。芥川龍之介には「蜜柑」という小品がある。

 

 芥川が横須賀から蒸気機関車に乗って東京に帰る時の話だ。仕事で疲れ果て、芥川は鬱々とした気分を自分自身で持て余していた。そこに、横須賀の気のきかない田舎娘(大正時代の話なのでご容赦を願います)が、一等車両に紛れ込んできて、芥川の向かいの座席にどっかりと坐り込んでしまった。そして更に、彼女は小さな失態をくりかえしていく。芥川のイライラと不快感は募りに募っていく。そして、それが極限に達しようとした、その時、目の前で、田舎娘は思いもよらない行動にでる。機関車の窓を開け、外に蜜柑を放り投げたのだ。芥川には一気に状況の合点がいった。芥川は何とも言えない、ほのぼのとした温かい心持を取り戻す。一瞬の出来事で、一挙に、心持が、そして目の前の風景や意味合いが、まったく変容して、とても愛情深い世界に包まれる。

 

 一つの出来事をきっかけに、状況の意味合いや肌合いが一変する。そして心持が変化する。これが一挙に起こる。芥川の場合、少女の蜜柑で、起こった。

 

 イエスという具体的な人間の登場で、神が、父として一挙に相貌を現す。人の内面に聖霊の息吹が押し寄せる。これが一挙に起こる。それは一時の心境の変化というようなものではない。存在の本質がまさに現出したのだ。神の本質が存在全体に受肉したといってよい。イエスという具体的な人間の存在によって。

 

 イエスと出会い、イエスに接し、多くの人たちがこの経験を共有している。三位一体のこの真理は、被造物全体にこだましている。

 

 一つの出来事で気分が変わる、全体の意味合いが変貌する。私たち人間は不完全な存在なので、この現象は決していいことづくめではない。些細なできごとですべてが台無しになる。そうした、逆の、負の変容もある。今まで笑っていたものが一瞬に悲嘆に暮れる。希望が一転して絶望になる。いずれにせよ、具体的な一点から、全体が変容するという、この仕組みは同じだ。

 

 三位一体の響きである。神の本質は、愛の本質、喜びの現存なので、本来、三位一体の響きは、次のような招きになる。

 

 「わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなた方に告げ知らせるのは、あなた方もわたしたちと交わりをもつようになるためです。わたしたちの交わりとは、御父とその御子との交わりです。わたしたちがこれらのことを書き送るのは、わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるためです」ヨハネの第一の手紙1章3-4節。

 

 喜びに変貌するように・・・たとえそれが人間的な、この世的なマイナスな状況への転換であっても、そこには必ず「喜び」に方向付けられた深い意味合いが込められている。

 

 現実の日常で、この三位一体をどれくらい経験することができるか。不都合な、受け入れ難い現実であったとしても、そこにどれくらい三位一体を期待し、希望をもって待ち望むことができるか。私たちは問われているかもしれない。

 

 しかし、「この希望はわたしたちを裏切ることはありません」(ロマ5:5)。なぜなら、この宇宙の、被造物の、存在全体が、三位一体の神に由来するからだ。

 

 三つなのに一つ、一つなのに三つ・・・理性では捉えきれない、神の神秘。父と子と聖霊の一なる神、これこそがキリスト教の神。私たちは生きておられるイエスとの関わりにおいて、父を知り、聖霊を知り、三つが一つである体験を卒然と体得する。理性や常識は決してこれを分節化して明示できない。する必要もない。三位一体を感じる時、三位一体を体験する時、元気が出て、心底納得がいって、希望が湧いて、生きていることが、自分が自分であることが、世界がこのような世界であることが、まるごと、とっても嬉しくなる。

 

 大切なことは、この三位一体、父と子と聖霊の、「子」がナザレのイエスであること、ここに常に立ち返りつつ、私たちは「キリスト」を、「神の子」を、理解していくことである。キリスト、神の子、の称号を使いながら、かえってうっかり「ナザレのイエス」を見失ってしまわないように、この「ナザレのイエス」こそ、父と子と聖霊なる、三位一体の神、その「子」であることにしっかりと立ち返ることである。

 

 「あなたこそ生ける神の子、メシアです」(マタイ16:16)とペトロと心と言葉を合わせて告白しようとも、「サタンよ、引き下がれ。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである」(マルコ8:32)とイエスから叱声されかねない、人間の思いとしての、神の子理解、メシア理解をしている可能性があるからである。

 

 復活節が終わり、聖霊降臨、三位一体と、主日のテーマに学んできた。これから「年間」を通して、この「ナザレのイエス」から「父」と関わり、「父なる神」を知っていく。そして、イエスの内に働く「聖霊」を知ることで、私たちと聖霊との関わりに気づいていく。

 

 ご一緒に、ナザレのイエス、子なる神を起点として、父なる神、聖霊なる神に触れ、招かれている「喜び」を真に、共に喜んでいく、新たな(新型コロナ)以後の世界と生活に向かって、歩む力を頂きたいと思います。