2020年3月29日 四旬節第5主日

ヨハネによる福音書11章1節~45節

 

おーい、出てこい ~ 死から命への呼び出し

 

油谷 弘幸・東京教区

 

 今日の福音は、ラザロの蘇りのエピソードです。復活の命にあずかる蘇りの物語・・・死から命に、イエスは呼び出します。

「出てきなさい」と。

 

 初めに、教科書的に「ラザロ」について見ておきましょう。

 ラザロは、エレアザル(神は助ける、という意味だそうです)というヘブライ語の名前の短縮形だと言います。ギリシャ語読みだという説明もありましたが、イエス様は多分ギリシャ語は話さなかったのではないかと思われますので、短縮形とみた方がいいかもしれません。

 エレアザルを早口で言ってみてください。確かにラザロと聞こえます。もっとも日本語の「エレアザル」と当時のイスラエルの人々の発音が同じではないかもしれませんが。

 イエス様は沢山のたとえ話を話されましたが、固有の名前を持つ登場人物は、一人だけ出てきますが、その人の名前がラザロになっています。病気の貧しい男で、金持ちの家の門前で亡くなって天に上り、アブラハムのふところに抱かれる男です(ルカ16:19~31)。

 今日のラザロと何か関係があるのか、たまたまイエス様はその名前を使っただけなのか、あえてその名前にする理由があったのか、それは全く不明です。

 

 昨年、「幸福のラザロ」というイタリア映画が上映されました。日本では、幾つかの小さな劇場だけで公開されただけで、作風も地味で、それほど話題になったわけではありませんが、私には、寓意に富み、心に残る秀作でした。2018年にカンヌ国際映画祭で賞をとっているそうです。

 映画のラザロは、大自然溢れる田舎の村で、農作業に従事する、純朴で温和な若者です。誰にも愛され、というよりも、その人の好さから誰からも都合よくあしらわれ、使い走りをさせられていますが、本人は嫌な顔一つせず、にこやかに受けて、黙々と仕事を果たします。寡黙に目立つことなく、でも必ず村人たちの傍にいます。善人のシンボルのような青年です。

 これは、今日の福音に出てくる「ラザロ」でしょうか?もちろん、映画は現代の物語です。でも映画の作者は、福音書のラザロを意識しているのでしょうか。

 いずれにしても、聖書のラザロがもし生きていたら、ラザロはこんな人だったに違いない、と思われるような映画の中のラザロです。

 ただ、聖書の、今日の福音の蘇りのラザロについては、彼がどんな人なのか、どのような人物だったのかは、私たちには、実は、知り得る材料がありません。イエスが「愛しておられた者」だったという証言があるだけです。私たちは、多分、マリアとマルタの兄弟ラザロと、イエスのたとえ話の中に出てくるラザロとを、名前が同じなので、イメージを重ねて同一人物のように思いなしているところがあるかもしれません。ベタニアのラザロには、アブラハムの懐に抱かれるような、そんなエピソードが相応しいと自然に思えるのです。ただし、ベタニアのラザロは、金持ちの食卓からこぼれ落ちる食物で飢えをしのぎたいと思うほどの状況にあったようには思えませんが。

 それでも私たちのイメージは、愛すべき好人物、イエスに愛され、その死を多くの人々から惜しまれるような、そして蘇りの恩恵を受けるに値するような、善人、ラザロ・・・そして映画のラザロもまさにそのような人物でした。

 

 このラザロの映画を見ながら、私は、突然、数十年前のある人物のことを思い出しました。

 これまで全く思い出すこともなかった、小学校、中学校の時の同級生です。名前も出てきませんが、彼に対する私の態度が鮮明に思い出されて来ました。彼は農家の息子で、成績もよくない、何をやってもノロマで、不器用、性格もあんまり素直じゃない、その彼のことが、映画のラザロにと二重写しのように蘇って来たのです。私はこの同級生が大嫌いでした。嫌いというより、もっとダイレクトに、軽蔑と嫌悪の対象で、私の中には無意識的で生理的なくらいの、彼に対する強烈な忌避と拒否がありました。私に対して、彼に何か具体的な非があったわけでは全くありません。それなのに、私は彼を常に見下し、その言動をもって彼を侮蔑し、愚弄し、時には、理由もなく小突いたり、罵声をあびせたり怒鳴りつけたり、本当に冷酷で容赦のない仕打ちを繰り返しました。彼の気持ちを思いやることなど毛頭なく、自分がどれくらい非道な態度をとっているか自ら意識さえ全くなく、当時の私には一片の良心の呵責もなかったのです。無意識で反射的な悪意の表出・・・彼はその標的でした。だから記憶にさえ残らないでいた、その彼のことと私の彼に対する言動が、突然、走馬灯のように蘇って来たのです。

 

 私は彼に対して具体的な悪意の塊でした。そこに私の残酷さ、傲慢さ、冷酷さ、ありとあらゆる私のおぞましいばかりの下劣で卑劣な品性が具現しています。身体と心に電流が走るようなショックが走りました。

 焼かれるような恥ずかしさ、いたたまれなさ、後悔、なにより彼に対する申し訳なさが、一挙に私に押し寄せて来ました。「俺は彼に対して、なんて酷い仕打ちをしていたのか!」映画のラザロと、同級生の思い出と、私の感情が一つに重なったのです。

 思えば不思議なことです。なぜ、今、このことを思い出したのか。「忘れていた」のではないのです。初めからまったく意識されることなく、彼に対する様々な暴力が行われ、反省されることもない、前意識的な出来事なので、「忘れる」ことも起こっていない、完全に無視され、過去の中に消え失せていた出来事なのです。だからこれまで「思い出す」ことなど全く無かったのです。それだけに私の悪意の凶悪さは極めつけです。それが、突然、映画の映像と物語、「ラザロ」という名前の人物によって、呼び起こされたのです。ある意味、無から有に立ち上がってきたのです。そして私のうちに強烈な慚愧の思い、良心の呵責を掻き立てたのです。


 「ラザロ、出てきなさい」
 イエスの呼びかけは、死者の中から善人ラザロを呼び出しました。

 同時に映画の善人ラザロは、邪悪な私の中から良心を呼び出したかのようです。

 ラザロが亡くなったことを聞いてイエスは涙しました。私の中に良心が死に果てていることで、イエスはずっと涙していたのかもしれません。

 ある方が、この聖書の、ラザロの蘇りのエピソードについてこんなことを言いました。「どうせ生き返ったって、人間はいつかまた必ず死ぬんだ。死ぬ時間を先送りしただけじゃないか。この出来事に何の意味があるんだろうか?」

 しかし、ラザロの蘇りは、私たちの希望となります。この現実の中で、一度でも「蘇り」の出来事に遭遇したのなら、蘇りの可能性をこの現実の中に見つけたら、それは希望です。それだけで生きて行ける。ラザロが蘇生した事実は、復活への希望です。

 同様に、私の良心はきっと何度でも死ぬでしょう。慢性的にマヒしていたくらいだから、一度蘇ったくらいで、どうせまた元の木阿弥、再び私の良心はマヒしたまま生きるだけ・・・何の意味がある・・・いや、そんなことはない。私の良心は一度でも蘇った。たった一度だったかもしれないが、蘇った。

 私の良心が蘇った事実は、私の中に良心が生きているしるしだ、私も善意をもって生きて行けるかもしれない、その可能性の希望です。もし、またそれらが失せたとしても、ラザロが再び死に服したとしても、私が自分の良心を見失ったとしても、必ず、イエスの声は響き渡ります。 

 

 「ラザロよ、出てきなさい」

 イエスは、このように私たちに向かって、ラザロを死から命に呼び出したように、良心や希望や、人間が人間として真に人間らしく生きるために必要な大切な何かを、あなたがあなたとして真にあなたらしく生きて行くために必要な大切な何かを、必ず呼び出そうとされます。そしてそれは必ず実現します。ラザロが蘇ったように。死から命を、無から有を、絶望から希望を、呼び出してく出さるのです。

 さあ、イエスの声にご一緒に耳をすましましょう。

 ラザロよ、出てきななさい・・・出てきなさい・・・出てきなさい・・・呼び出されているのは何でしょう、命、良心、希望、可能性、あなたの大切な何か・・・イエスは、呼び出そうとしておられます。

 

 出てきなさい、出てきなさい・・・

 おーい、出てこい!!