2020年7月4日 年間第14主日

マタイによる福音書 11章25~30節

 

クラレチアン宣教会

梅崎 隆一 神父

 

 

 知恵と名声を博していたソロモン王は、善悪を正しく判断して公正な裁判を行った。国土もイスラエルのどの歴史の中でも最も広く、支配している国々から貢物を献上させ、国境は平和でした。国の中では銀は多すぎて石ころぐらいの価値しかなく、金のみが流通して、国民の中に一人の奴隷もいませんでした。やがてイスラエル人の悲願であった神殿を造り、契約の箱をテント(臨在の幕屋)から神殿に安置した。そんな彼は老境に入ると、他の神々に心を向ける者となった。

 

 今の日本や世界でも善悪を正しく判断して公正な裁きを行い、平和な日常をもたらし、国が繁栄し、自由を保障してくれるリーダを欲しているし、自分がそうなれればと憧れたりもする。

 

 しかし人が考える理想ではなく、父のみこころを知ることが大切であり、ソロモンのようにこの世の全てのものを持っていても、神から離れるなら人々の心を分裂に導く原因になると聖書は私たちに語ります。

 

 私たちは父に向って祈る「主の祈り」の中で「みこころが天に行われる通り、地にも行われますように」と祈ります。そのみこころを知る者とは、知恵ある者や賢いものではなく、幼子のような者であると言う。ソロモンのように知恵に優れていても、知恵そのものは主を知るための保証にはなりません。人の弱さの中にこその神の力が示されるのですから、弱い時にこそ何か大切なことを知るチャンスを得ることができます。そして神を知ること以上にこの世で大切なことはありません。

 

 神の救いを信じて集まっている私たち教会も神のみこころを知るためにここに集まっています。父のみこころを知る者、「それは神学を勉強して学位を持っていて、権威から認められ、人が惚れ惚れするような発想を持ち、決断が速い人のことである」、とこの世の常識を使って判断しようとします。しかし神のみこころを知りたいのなら、そのような常識を捨て、社会や共同体の中の最も低いところまで下りていかなければなりません。

 

 イエスは社会の中で弱く打ちひしがれている人々に向かって「あなたがたは地の塩であり世の光である」(マタ5,13-16)と言われました。そして「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時あなたがたは幸いである」(マタ5,11)と言われます。この世の常識から離れる時、人からバカにされるものです。

 

 「知る」というのは頭の中に記憶することではなく、自分の人生をかけて生きていくことです。

 

 「父のみこころとは子を見て信じる者が永遠の命を得ること」(ヨハネ6、40)

 「子によらなければ誰も父を知ることができない」(ヨハネ14、9)

 

 私たちは人生の中で様々な理由によって惨めな思いを持つことが度々ありますが、その弱い姿の中にこそこの世の知恵を超える救いを示すことになります。神に似せて造られた全ての人間は、いつか朽ちてしまうものではなく、永遠に無くならない何か大切なことのために自分の人生を捧げることを望んでいます。

 

 イエスの父を父と呼ぶ私たちの姿を見る者が永遠のいのちを得る時に、父の子どもとして生きることの素晴らしさを心の底から知る者となります。