2020年7月26日 年間第17主日

マタイによる福音書 13章44~52節

 

主任司祭
 加藤 豊 神父

 

隠された宝

 

 わたしたちの内面に、まだ、わたしたち自身、知らされていない何かが隠されています。

 

 例えば、普通、人間は脳の機能の全部を使いきれずに生涯を終えるといわれます。使わずに過ごしているだけで、使えば凄いことになるわけです。一人一人の内側に、秘められた能力が覚醒することなく、眠っているので、それが何かをきっかけとして目覚めたときには、自分自身にも知られていないみずからの資質や適正に驚くことになります。

 

 なんだか、どこぞの「自己開発系の効能書き」のような話をしてしまいましたが、これじたいは眉唾ではなく、実際に「自分が知っている自分」と「自分にも知られていない自分」とが一人の人のなかに共存しているのは、いうまでもないことです。

 

 ちょっと考えただけでも「主観」と「客観」ということがいわれますし、本人は全く意識せず無自覚でいても、他人からは「筋がいい」と思われたりと、よくあること、といえば、それは、よくあることです。ただ、「自己開発系の人たち」は、それを意図的にコントロールしようとするところが、危なっかしい結果に繋がって行くわけです。

 

 「心頭を滅却すれば火もまた滅し」も然もあらんことなのですが、意図的に火の中に入れば、そりゃ熱いに決まってます。当たり前ですよね。それを意図的に熱く感じないようにするだけにワークショップをこなすなら、その動機は一言で言えば「わがまま」です。神秘を売買するなんて不謹慎極まりないですよね。

 

 実は、そういう方向性とは正反対の心となったときに「秘められた宝」が現れます。イエスはご自分のためには奇跡をなさらなかった。しかし、わたしたちは大概「わがままで」自分のためにこそ奇跡を欲したりします。その「自我の殻」が破れないと益々ドツボに嵌ります。

 

 よく宗教の「はしご」をしている人たちにその傾向は顕著です。雛が卵から生まれるように、殻は破られて新たな命が誕生します。そのためには生まれようとするために内側から突くだけでなく、親鳥が外側からも突きます。「内」と「外」つまり人は他者との関係性の中で開花するべき何かを持っており、それは自分の執着心からではなく、関係性の中で培われていく資質や適正を自他共に発見するのです。

 

 世界を善く変えようとする気持ちは尊いが、そのために自分から変わらなければという視点が喪失されてしまうなら、結局、革命だって「わがまま」が根拠です。

 

 わたしたちは、これらのことを踏まえて、この日の福音と向き合う必要がありそうです。天の国は「空間的なイメージ」で表現されることが多いが、それはむしろ「状態」なのです。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき」畑ごと買い(必要に応じて)自分の蔵から古いものと新しいものを取り出す」。

 

 新たに獲得した自分の能力は意図的に開花させるものであるよりは、人と人との関わりにおいて発見されるものであり、それが本物であればあるほど自己顕示欲からは程遠く、必要に応じて用いられる他者性を有しているものです。まさに「神の国」はわたしたちの間にあって一人一人の内側に隠された宝、人間が真の幸せに向かうために予め用意されている「秘められた現実」なのです。