2020年5月3日 復活節第4主日

ヨハネによる福音書10章1節~10節

 

サレジオ修道会

田村 寛 神父

 

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 

 

ヨハネ10章のいわゆる「羊と羊飼いのたとえ」には、良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています。良い羊飼いは羊を知っており、羊の名を呼びます。羊が豊かにいのちを得るため、羊飼いは自分のいのちを差し出します。このいわゆる「牧者の愛」は私が所属するサレジオ修道会の創立者であるドン・ボスコの全生涯の特徴であり、彼の数多くのあらゆる活動を導いた原動力です。

 

ドン・ボスコは19世紀にイタリアのトリノで当時の社会の中で最も貧しく厳しい状況に置かれていた青少年のために自分の生涯を捧げた聖人です。「わたしは、君たちのために学び、 君たちのために働き、 君たちのために生き、 君たちのために命さえ捨てる覚悟がある。」ドン・ボスコのこの言葉はヨハネ10章のよい羊飼いとしてのイエスの姿に重なるものだと思います。

 

ご存知の方もおられるかもしれませんが、今から160年ほど前の1854年、イタリアのトリノはコレラの流行によって多くの犠牲者を出しました。特に、誕生して間もないサレジオ会のオラトリオ(子どもたちが学び・遊ぶセンター)のあった郊外の貧しい地域は大きな打撃を受けていました。ドン・ボスコの家の近くでも多数の病人が出ましたが、その親族や同居人は伝染をおそれて、患者を置き去りにしました。そのため、目も当てられない惨状になりました。

 

ノッタ市長は市民に呼びかけました。「病人の看護に赴き、病人を隔離病棟に運んでくれる勇敢な人びとを求める。感染が油の染みのように広がるのを防がねばならない」と。そのときドン・ボスコは、感染の恐れから取り残されてしまった病人を助けようと青年たちに呼びかけ、多くの若者が応えました。若者たちは三つのグループに分かれ、年長者は昼夜をおかず、隔離病棟や患者の家で奉仕しました。二番目のグループは新しい患者がいないか町の中を見て回り、三番目のグループはオラトリオに残って、要請があればすぐに応じられるように待機していました。若者たちは、3か月間、夜となく昼となく病人のために働き、大変な仕事をなしとげました。そして扶助者聖母マリアの保護のもと、若者たちはだれもコレラにかかることはありませんでした。

 

私は現在、小金井教会からほど近いサレジオ会の児童養護施設で約100人の子どもたちと毎日を過ごしています。日本中のみならず、世界的なレベルでの新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って、子どもたちは3月から始まった学校の休校が既に2か月近く続き、今の状況から少なくとも5月中の学校再開は難しいと予想されます。通常の長期休みといえば夏休みのようにキャンプやお祭りなどのイベント、スポーツの大会など様々な行事による楽しみがあるわけですが、今は出かけることも出来ず、ずっと施設内で単調な日々を強いられています。毎日体温を測り、手洗いや換気などに務め、体調の変化に気をつけながらも都内の感染者数をみれば分かるように、子どもたちや職員の中でいつ感染者が出てもおかしくない状況です。

 

どんなに気を付けていても年少の子どもたちは発熱しやすく、先日数日間にわたって微熱が続いた子どもがおり、小児科で受診した際、念のためにPCR検査を受けました。検査を受ける前から発熱した段階で既に個室に隔離して対応していましたが、もし陽性だったら一緒にいた子どもたちや職員は全員濃厚接触者となるわけです。そんな状況の中でその子の看病をするということは自分も感染するリスクが高い中、ある職員が「私がこの子をみます」と結果が出るまでの数日間を一緒に過ごしてくれました。検査の結果は幸い陰性でしたが、今後もリスクと隣り合わせの日々が続きます。そうした状況にあって子どもたちに献身的に寄り添う職員の姿に今日の福音書のよい羊飼いとしてのイエスの姿が浮かび上がります。

 

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を知っているので、ついて行く。」この“知っている”という言葉について「聖書と典礼」のパンフレットの解説には「ただ知識として知っているというだけでなく、両者の深い交わりを表すことばである」とあります。イエスと私たちの深い結びつきがあって、私たちはイエスの声を聞き分けることが出来るのです。

 

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」イエスは羊である私たちの救いのために十字架上で自らの命を捧げ、復活によって新たな希望を示して下さいました。ですからこの新型ウイルスの困難な状況の中、自己中心的な姿勢で自分の殻に閉じこもり、耳を閉ざしそうな時だからこそ、罪びとである私たち一人ひとりの名を呼んで下さる羊飼いとしてのイエスの声に耳を傾け、心を開いてついて行きたいと思います。

 

今日は世界召命祈願の日でもあります。イエスから呼ばれている私たちがそれぞれの生き方をかつてない試練のうちにあって問われているのかもしれません。イエスから豊かな恵みを頂いた私たちがその喜びを今度は他の人に分かち合うように招かれているのです。今日の第一朗読には次のようにあります。

「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまりわたしたちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒言行録239

 

教会や様々な場所で直接会うことが出来ない今の状況の中でもSNSなどの現代のツールを活用して、そして何よりも時間と空間を超えて働かれる「祈り」という最高の手段を通して私たちはつながっているという気持ちを新たにしたいと思います。