2020年5月10日 復活節第5主日

ヨハネによる福音書14章1節~12節

 

主任司祭

加藤 豊 神父

 

「場」

 

 

 イエスは弟子たちに向かって「あなたがたのために場所を用意する」と仰います。

 

 単純に思い浮かぶのは天国(来世)です。この箇所はイエスがご受難と死に向かう前に弟子に話している箇所なので、贖いのための死を遂げに行く人(父なる神のもとへと向かうイエス)が、後から弟子たちを迎えに来るというのですから、単純に考えればそういうことになってしまいます。

 

 しかし、そもそも天国とは空間的な「場所」なのでしょうか。微妙な言い方をしますと場所というか「場」ではないでしょうか。教室は教室という場所です。体育館は体育館という場所です。つまりそれらは「空間的な場所」なのです。

 

 ところが、「場」というともっと広い意味になります。フォーマルな「場」とか、肩のこらない「場」とか、です。そういう「フォーマルな場」に、ルーズな気持ちで入って行くと、それは「場違い」といわれたりします。以前、若い世代の間でよくいわれた「空気読めない人・KYな人」という人たちは、まあ別の言い方をすれば「場違いな人」ということでしょう。その「場」の雰囲気が解らないのですから。こういうときの「場」の観念というのは、空間的な「場所」のイメージとはちょっと違いますよね。


 ところで皆さんは「アトピー性皮膚炎」という謎の小児病をご存知でしょうか。幼い子供がこの病に苦しむ姿は本当に気の毒です。「アトピー」とは、もともと「ア・トポス」から来ています。新約聖書が書かれたギリシア語というのは、ちょっと特殊なギリシア語ですが、それでもギリシア語で「トポス」というと、「場」とか「場所」です。それに否定の「ア」が着いて「ア・トポス」つまり「アトピー」です。「場違い」といった意味です。

 

 幼い子供であっても、何かの居心地の悪さや、子供なりのストレスがあるわけで、そういうものが皮膚に現れてしまうのですね。だからこれは場合によっては大人にもあることで、かくいうわたし自身、前の教会でアトピーを患ってしまったのです。不味かったのは、アトピーを患ったまま、こういう話をしたところ、「神父様やっぱりうちの教会は場違いでらしたのね」と悲しそうな顔でその教会の方からいわれ、「いいえ、そうじゃないんです。この場(この教会)はいい教会です」と、必死に誤解を払拭しようとしていたことを思い出します。実際いい教会でした。

 

 人は至る所に赴くが、その時々において絶え「居場所」を求めます。安心できる「場」が必要なのです。「場違い」のままの状態が意識され、それが長引けば必ず人は「居心地の悪さ」を感じます。その意味で空間的な「場所」だけがその「場」なのではなくて、人と人とが関わる「場」という意味では、人間関係そのものが一つの「場」なのです。とはいえ現代人は皆一応にストレスを抱えていますから、どんなに望ましい人間関係であったとしても絶えず「居心地の良さ」ばかりを感じられるとは限りません。むしろお互いを大切にし合わずに「居心地の良さ」だけを奪い合うようでは、その関係性は一転「居心地の悪さ」を呼び覚ますでしょう。

 

 これからどうなるのかがよくわからずにイエスに従ってきてしまった弟子たちは当然、内に不安定な感覚を秘めていました。そんな彼らに「心を騒がせるな」といわれたイエスは、いったい具体的には彼らに何を示したのかといえば、「あなたがたのための場所」の約束ですが、それは「空間的な場所」というより、神と共にあるという、その「関わり」によって得られる「主の平和(平安)」です。しかも、「もしなければ」わざわざ用意するといってくださった。

 

 その「場」は「死んでも生きておられる主イエス」、すなわち「子なる神」との関わりなので、究極的には「命の源」である「父なる神」との関わりであり、「命あるものを生かす霊」「聖霊なる神」によって結ばれる絆です。それゆえ、その交わりのなかに招き入れられる人に約束された「場」であって、それは「死」をもって引き裂かれることさえない程のものです。

 

 今日はこれで終わります。今年もわたしにこのような「場」をくださった主に感謝します。