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塵さえも美しい世界への誘い(復活祭を前に)

加藤 豊

「汝、塵なれば、また塵に戻るものなり」、かつて聖書の文語体は旧約聖書「創世記」(3:19の結び)をこのように訳していました。灰の水曜日のミサの中で行われる「灰の式」において、このみ言葉が用いられます。ただし、もっと解りやすい言い方で「あなたは塵なので塵に帰るのです」と口語で言われます。

 

口語の翻訳(共同)も先ごろ最新版が発刊され、そこでは「礼拝にも適した」翻訳、というところに主眼が置かれていて、たいへんな労作だと感じています。とはいえ時に文語もまた味わい深く感じられてしまうのは、きっとわたしだけではないでしょう。

 

「汝、塵なれば、また塵に戻るものなり」、文語でこう言われると、現代人にはどこか重々しくもあり、その分、格調高く響いて来るように思われます。そして、またこの日本では「もののあわれ」を思い起こさせるような趣きを伴うことでしょう。総じて言えるのは、日常に埋没するわたしたちの意表をついて究極的に人生を振り返らざるを得ない哲学的視野を覚醒させるところまで向かうかもしれません。

 

わたしたちもまた、他の被造物と同様、この身体は原子の集合であって、生じたり滅したりする種々の事物と変わりなく、動物や植物、否、無機物でさえ、この点は人間と何も変わりません。

 

東洋であれば、塵にも魂を観ようとする生命感があり(今はどうか解りませんが)、他方、聖書の舞台となった乾燥地帯、特に「荒れ野」と呼ばれるような地域では、確かにアニミズム的な生命感は成立しにくいのだとは思いますが、それでも、現代のわたしたちとはかなり異なり、それ相応の豊穣な生命感があったはずなのです。全ては神によって作られた、という限りにおいて、どんなに無機質に見える「塵」さえも、被造物として創造主の温もりを保ってるのです。

 

しかし、事態は深刻に受け止められる状況を深めています。わたしたちは最早、洋の東西を問わず、「塵」が人間の物質的な実態であることを知るだけで、それを被造物として受け止める感性が欠落しています。古代社会における人類がおそらくは概ね「塵なら塵に帰るのも仕方ない」と思えていたのに対し、現代人は多分「塵が実態だとしても俺は塵なんかじゃない」とどこかで思っているのです。

 

「創世記」ではアダムとエヴァが直面した現実はこれと似ています。それまでは塵であるかどうかなど人間にとって問題ではなかったはずです。否、「塵」であろうと、あわれみ深い主のみ手によるものだから良いものだったはずです。ところが今や「塵」は「取るに足りないもの」「価値無きもの」として扱われます。神を失った近代合理論の暴走、自らを無意識のうちに神格化している主知主義的欺瞞、それらは、よってたかって、わたしたちが「塵に帰ること」への恐怖感をただただ増長させているのです。

 

本来「塵に過ぎない人間が永遠の命にあずかる」というのが復活祭のメッセージの中心ではありましょうが、「汝、塵なれば、また塵に戻るものなり」というみ言葉を受け、「もののあわれ」を想起できるだけの文化的背景を持ち合わせているであろうわたしたち日本のキリスト者は、単純な二元論的な理解から抜け出して、四旬節を過ごすことができると思います。すなわち「どうせ復活祭が来るのだから、やっぱり俺は塵じゃない」などという考え方から解放されているのです。やがては塵に帰って行く人生だからこそ儚くも尊いのであり、その深みに沈むような経験が復活の喜びの保障となるものであるはずです。