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王様は本当に裸だったのか?

加藤 豊

皆さんも童話「裸の王様」をご存知だと思います。わたしも子どもの頃にこの話を聞かされました。しかし聞くなりすぐに思ったのです。王様は本当に裸だったのかと。

 

ストーリーそのものは、仕立て屋を悪人と描いているわけではないにも関わらず、その実、キャラクター説明が希薄過ぎます。また、この仕立て屋は結果的には権力者を小馬鹿にしたのですから、よっぽど冗談が解る相手でないと、後でひどい目に合わされるという想像もしていないのが不自然過ぎるのです。作者が言いたいことは充分理解できますが、内容構成として結論を急ぎ過ぎ、そのため少々雑な展開が多すぎる気もします。

 

更に、これから述べさせていただく点については特にそうですが、わたしは絶えず疑問を感じ、腑に落ちないままでおります。

 

先ず、仕立て屋は自信満々にこれを着ろとばかりに、いわば「透明な」服(実は服など初めから無い)を王様にあてがっていて、王様は愚かにもそれを勧め通りに真に受けます。その「透明な」服を着て(着たつもりで)堂々と外へ出ます。服なんてない(見えない)ことを認めたくなかったわけです。周りの人も皆これに同調し、結局、実態は裸であるままにその「透明の服」は既成事実として誰からも見えるものとして公の事柄とります。

 

次に、王様がそれを着て街を行進をすると、見物に来ていた一人の子供が騒いで、「王様は裸だ‼︎」と叫びます。すると一緒にいた沢山の見物人たちも「やっぱりそうだよね」と我に返って同様に「王様は裸」と口々に叫び、「裸だ。裸だ」と大騒ぎになります。これも不自然です。

 

いかがでしょうか?王の前で緊張しない子供、王の前で平気で自分が思ったことを率直にいえる大人。そもそも悪ふざけが過ぎる仕立て屋、軽率な側近たち。こうした状況から考えるなら、この王は愚かではあっても案外人々から身近な存在と思われていたような印象を読者に与えてしまわないでしょうか?しかもその後、王が激怒して国民や仕立て屋を処刑した、なんて後日談が続くわけでもないのです。

 

ただ、わたしがこういうことをいいますと、およそ10人中、9人は、お前は作者のいいたいことが分かっていない、と指摘してくださいます。これまた奇妙で、物語の内容から見て取れる客観的な事実を正直に列挙したに過ぎない相手に、そうじゃない、と言い聞かせる多数派の人たちは、王様の衣装に象徴される共同幻想の体現者であるかのように思えてしまうのはわたしだけでしょうか?

 

話が少し横にそれてしまいましたが、ここで注目したいのは、「裸の王様が着ていたものとは一体何だったのか」ということなのであります。ここでまた多くの人いうでしょう。裸だってことは、何も着ていないってことなのに、やけに屁理屈をこねる人だねと。しかし、わたしは逆に、そのような意見こそ、作者への理解の度合いを尺度にした群集心理に基づく危険なものだと思えてしまうのです(つまり、ここでわたしからお伝えしたいことは、この童話がお好きな方への批判では決してありません)。王様が着ていたと思われるもの、それは、虚栄、威嚇、権力への安住、恥に対する鈍感さとその傾向が反映した対人間観。あるいは、惰性、自己顕示欲、詰まるとこは、ついに諦念、でしょうか。

 

否、本当に目には見えないもの、それは見ようとしなければ見えない何かでは、と想像する人はほとんどいません。つまり結論先にありきの感が強い。そして、最近ではこんなふうに思います。王様の着ていたもの、それは子供には素直過ぎて却って見えないもの、見えるという暗黙の了解に同調させるほどの何か、ではなかったかと。だとしたらこのストーリーは一般化された時点で不運な名作となっていますよね…。