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客観的主観と主観的客観

加藤 豊 神父

フランス文学の解説か何かで、レシとポエムという概念を聞いたことがありました。これは別の言い方をすれば抒情詩と叙事詩、または一人称か三人称かといった分け方となりましょうか。

 

よく、主観的か客観的かといったその視点について議論があると、客観的な方が冷静な分析力を有し、主観的な意見は自分勝手でわがままな意見だったりと、まあ、場が場であれば、主観は部が悪いです。しかし、何事においても、主観のない客観もなければ、客観のない主観もないのが現実です。なので「的」と着けるのは極めて妥当であろうと、客観的に思いますし、これはわたしの主観的見解でもあります。

 

よく似た事態でよく見かけるのは、公私混同や「逃げ腰の主観」による客観的な発言です。

 

例えばですが、前にこんな人がいました。「これはわたしがいったことではないのですが、多くの方のご意見なので皆さんに是非ともお伝えしたい」と前置きしながら自分の意見を言いたいだけ言うというパターン。

 

反対にこんな人もいます。口を開けば「ボクなんかねえ」「ボクなんかねえ」で始まるものの、その意見は極めて冷静で鋭い、というパターン。そうです。客観的か主観的かは主語の数が何回出てくるのかということと関係がありませんし、自己主張なのか、一般論の強調なのかも会話の内容からしか判断できないはずです。

 

ただ、冷静に振る舞いたい人、クールなイメージで熱くなることを恥ずかしがる人は客観的な表現で主観を展開しがちです。いざとなれば「わたしが勝手にいったことではなくて、皆の意見です」とかわせるものだから、主観的印象を払拭しても陰に潜む主観が透けて見え、しかも煙に巻かれた主体性が見えないものだから、結果的には「ホントにこの人のこと信じていいのかな?」となってしまう。人間関係において信用を無くしてしまう人、皆さんの職場にはおられますでしょうか?というか政治家に時々いますよね。

 

かつてプラトンもデカルトも憧れた数学的透明性や没個性的な幾何学的構図といったものは三人称にばかりあるわけではありません。高校生の頃、カミュの代表作『異邦人』を読みました。ご存知のように、一人称で書かれています。一人称なのにその印象はまるで叙事詩です。一人称でも客観的な記述は出来るのだとそのとき思いました。

 

それに対して三人称の主観的脚本も珍しくありません。客観性を装いながら「言いたいこと」に満ちている主観が見え隠れしますが、作者は無自覚です。偏見や差別に囚われていても、知らず知らずにみずからを客観的思考の持ち主だと思い込んでいる人だって沢山いるでしょう。

 

気をつけたいものです。客観的聖書研究をもとにしていても、結局、主観的メッセージが発せられたそのとき、神の言葉が人の言葉に仕えることになってしまうのですから。いや、これこそわたしの主観的見解ですが。