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肩書き

加藤 豊

世の変動は激しいものです。ある時は学歴社会、またある時は実力社会。はたまた、ある時は「これからはジェネラリストの時代だ」と誰かが叫び、またある時は「これからはスペシャリストの時代だ」と叫びます。「どっちでもいいじゃないか」と部外者のわたしは思うわけですが、教会的な価値観からは本来、肩書きを絶対視しませんし、それどころか、パウロは「霊」と「肉」を分けてキリスト教的価値観を語っており、そこでは「肉」というキーワードが概ね「物質」とか「見えるもの」、「知覚可能なもの」のような意味で説明されています(これはいわゆる霊肉二元論の教義とは異なるのですが)。

 

世俗的な身分が高い人ほど教会においてはそれを誇らない低姿勢は見事なもので、そういう「センスのいい」教会人も沢山います。

 

しかし逆もまた然りで、世俗の身分の高さを教会的な価値観に持ち込む人たちも結構いるわけです。それらはやはりパウロがいう「肉」に重きを置く行為とみられてしまうでしょうね。

 

+「わたしたちは自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間同士で評価し合い、比較し合っています…」(2コリント10:12-18参照)。

+「肉に頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。」

+「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(フィリピ3:4-8参照)

 

社会常識に反したことも、また社会常識に雁字搦めの不自由さも等しく教会的とはいえません。つまり、ここから先のバランスは集団の中から各々感じ取る感覚が頼りです。その感覚に触れるためにはみずからその集団(共同体)の中に身を置いて(関わって)見るしかなく、肩書きが気になる人やプライドの高さに依拠した人はこの時点でもうそれができなくなってしまうのです。他人が自分に値しないと思うのでしょう。逆に見れば自分が値しないかもしれないのに。

 

使徒書簡中のパウロのまるで小言のような論調はこれが原因で、今も昔も人の心はあまり変わらず、そういう人の集まりである教会もまた今も昔も変わらない面があるのでしょう。

 

+「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(1コリント1:26-31参照)。

 

むしろ一般社会のほうが、教会のこうした価値観には敏感に思われることがあり、当の教会が気づかないのは何故なのでしょうか?

 

おそらくはここで究極的な目的の喪失というテーマを挙げることができるのではないかと思います。

 

教会感覚が麻痺してしまうほどの教会の忙しさが続いてしまった結果か、あるいはまた、本来の目的が究極的すぎるが故に手段の目的化が顕著になってしまった結果でありましょうか?

 

そりゃ、わたしだってイベントは楽しいし、皆が喜ぶ顔はかけがえのないものだと感じています。とはいえ、それに固執してまで教会が求める究極的な目的がどうなってもいいとは思いません。

 

+「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(ヤコブ4:13-15参照)。

 

少々、話がそれましたが、身分の高い低いによっては教会の宝たり得ないというのはおそらく誰も異論の余地がないほどでしょう。しかし、わたしたちの軽率さは、だからといって元〇〇○の〇〇さん、とか、あの人は元〇〇○にお勤めだったから等など、それらは素晴らしいことではあっても教会的な価値観とはまた別のそれでありましょう。

 

+「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」(ガラテヤ6:3-5)。

 

放置しておけば、そのうちカトリック教会が世の中で一番の肩書き社会となってしまうのではといらぬ心配をしてしまう今日この頃です。自分自身も反省させられます。

 

+「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それはあなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは誰も誇ることがないためです。」(エフェソ1:8-9参照)。

 

このようにいわれていますが、それなのに経歴や技術を誇りに教会で居場所を獲得しようとする人たちというのは、今も昔もやっぱりこれからもいるでしょう。さながらこの記事なども、わたしの無力さからでた遠吠のように聞こえてしまうでしょう。それで構いません。実際わたしは小さな者だからです。