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集められたわたしたち

加藤 豊

小金井市は祝された地ではないか、と感じたことがあった。実際のところはよくわからない。行政上の複雑さや市民一人一人の生活を具に見ての印象では決してない。

 

では、なぜそのように感じられたのかは、実に仕事柄そう思う勝手な感想による。

 

小金井市にはキリスト教会が11教派共存している(更にもう1教派加わるかもしれない)。そして時折、各教派の先生方が集まる。年に一度、合同礼拝のような集いもある。

 

以前から続いているらしい。毎年1月にあるいわゆる「教会一致祈祷週間」とは直接的な関係はない。あくまでも草の根レヴェルの有志集合体である。

 

こういうものは、あるところにはあるものだ。以前、千葉にいた時には、隣の地区の神父がその地域の「牧師会」に仲間入りさせてもらった話しを聞いたことがあった。おそらく探してみれば各地にこうした「牧師会」があるのだろうと思われる。わたしもこの地に着任してから早速「牧師会」に参加させていただいた。お互い頻繁にではないが確かな交流が重ねられている(わたし自身はほとんど何もお手伝いができない状態だが、それでも「牧師会」の日に各教派の先生方とお会いできるのが本当に嬉しい)。

 

先生方は皆一人一人まことに尊敬できる人たちである。まとめ役になっておられる先生の謙遜さとご配慮には敬意が尽きない。このような付き合いが長きに渡って続いている背景としては、エキュメニズムに関して理解のある人たちが揃っているからであろうと思う。

 

もちろん世界は広く人は多様だ。教会一致についての見解もそれぞれであろう。従ってエキュメニズムに対する反対者たちが不寛容だなどとは、わたしは思わない。教団愛や一途な姿勢がエキュメニズム批判を伴うこともあるのだろう。「カトリック教会と何かを一緒に行おうとは思わない」というキリスト教諸教派の主張も、これまでの歴史的経緯から大いにありえることだ。

 

加えて教派の考えだけでなく牧師たちの個人的な考えもこれに関わってくる。その点では「エキュメニズム」もただそれだけでは危うい絆でしかない。

 

ところが、この地においては上述した懸念が見出せない。発足から今尚「牧師会」は存続しており、各教派が共に歩む気持ちを失う気配はない。それは一つには、やはりこの地に派遣される司祭や牧師たちが、エキュメニカルな傾向を無意味なものとしない感性を持っているからだという他はない。

 

世に言う偶然なのか、預定のみ摂理なのか、人間にはわからない。いずれにせよ、わたしたちを呼ばれるのは主であり、集められたわたしたちはそのみ旨を受け取りながら対話する。