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力を弱めて無害なものに

加藤 豊

(1)平凡な日常

 

30年以上も前のこと。そこは真言宗智山派の寺院だった。街中にひっそりと佇む建物、墓地へは花が絶えることがないため、近所は檀家の家が囲む古い町の菩提寺としておもに機能する寺と見え、名所旧跡の類とは程遠く、遠路遥々詣てくる人などはいない。

 

もっともその分、純粋な地域密着型の典型といえよう。要は普通のお寺さんである。山門の掲示板には密教の本尊である大日如来の金像の写真に、「今を生きる」という言葉が毛筆で書かれたポスターが貼られていた。このポスターは密教系の寺院でその頃よく見かけた。智山派となく、豊山派となく、共通に配布されていたのかもしれない。それはちょうどカトリック教会でいえば、中央協議会から配られる復活祭やクリスマスのポスターのような印象であった。前を通りかかる度、わたしはポスターをジロジロと見ていたものだった。いつも決まった時間になるとご住職が竹箒を持って門前を掃き掃除にやってくる。

 

ある時ご住職はわたしに気づいた。「最近は日が長くなりましたね」と、お声をかけてこられた。

わたしは戸惑いつつも、「そうですね」と答えた。

 

実は、わたしがポスターに注目していたのは、「今を生きる」というその言葉が、あたかも「葬式仏教」という偏見に対して物申すためなのものであるのか、即身成仏を本旨とする真言宗にとっては、「あの世」のことばかりが仏の教えではないぞ、とばかりに、やはり、物申すためのものであるのか、という、そんな意図のもとに選ばれた言葉なのかどうなのか、そこに興味があったのだ。

 

しかし、だからといって、何もその種の議論を交わしたいなどとは微塵も思ってはいなかったので、挨拶程度で終わるなら、そのほうが、その場のわたしにはちょうどよかった。

 

 

(2)世間話は共通の関心事

 

時代は「天安門事件」の直後であった。

 

ご住職いった。「中国は大変なことになりましたね」。

「そうですね」と、わたしは答えた。この日2回目の「そうですね」だった。

 

なんだかこちらからも話さねばという思い、「あんな状況だったものだから上の命令に耐えられずに辞職した。軍人さんも結構いたみたいですね。ニュースで言ってました」。と、今度はわたしから話した。

 

正直、世間話は避けたかったし、増して政治の話など思わぬことだったが、こうなってしまったからには仕方がない。

 

ご住職はいった。「貴方様はお近くの方ですか?」

「いえ、ただ職場がこの近くなので」。

「そうですか? まあ、中国はあれじゃあ時代が逆戻りですよね」。

 

わたしは、「あのう、こちらは檀家の人でなくても境内に入って構わないのですか」ときいてみた。

ご住職は「どうぞお参りください」と言いつつも、なおも天安門事件について話をしたかったように思えた。

 

いかがであろうか、わたしはスキンヘッズに作務衣姿の高齢の密教僧をいわば道は違えど師として見たが、その師はみずからを町内の一人の市民という意識での立ち振る舞いである。意識の上では一般の社会人であり、それはその通りだが、でも、それでいいのだろうか、と「今を生きる」のポスターを眺めながらふと思う。

 

さながら「僧房」は「実家」、「山門」は「表玄関」、「本堂」は「アトリエ」で、それが修行であろうがなかろうが、落ち葉があれば家の前の掃き掃除なのだ。おそらく、仏教では「意識されない尊さ」のようなものが実際に尊ばれ、もっともらしく口を開けば「教え」ばかりを語るというあり方はあまり美しいことではないのかもしれない。

 

そして概ね我が身を振り返ればそうであるように、急に「教義」や「宗旨」についての議論を挑んでくるようなエキセントリックな相手であれば即座に冷静な話し合いはできないと悟り、身をかわすことになるのであろう。ただし、それだと真摯な気持ちで救いを求めてくるような来客の場合どうするのだろう、と思ってみても、師もわたしもそのときの自分の態度は全く想像できない。

 

そしておそらくはここがとても重要なのだが、みずからは意識していないことであっても、他人から見ればやはり特殊であるということに我々は相当、無自覚なのだ。例えば、朝晩のお勤め(カトリックでは聖務日課に当たるであろう)における読経も「いつものこと」であり、ご本尊への礼拝(仏教では「らいはい」だが)も「いつものこと」なのである。いいような、悪いような、少なくとも一般的には非日常的なことであるのだが。

 

 

(3)日常に飲み込まれる非日常

 

ただし、それらはどう考えても「誰にとっても」「いつものこと」というわけでは絶対ない。非日常的な分野にいることが意識されないこと、これこそまさに罠であろう。それは麻痺なのだ。つまり信仰の世界を毒でもなく、薬でもないものにしてしまうのだ。

 

中世ヨーロッパでは町中の皆が信者である。どうやって外側に宣教することができよう。また、どうやってみずからが非日常的な分野に触れていることに気づけるのであろうか。そしてこうした状況はちょうど現代日本において神社仏閣が信仰の世界と切り離され、止揚された結果一つの文化的産物として、毒でもなく、薬でもなく、無害なものとされているために、別段、風景としては人目を引くこともない分、そこに救いを求めて辿り着くような切迫した参拝者などは訪れることもないのであろう。

 

徹頭徹尾それらは日常的で、むしろ思いつめて立ち寄る人は、迎える側にとっては「変な人」として印象に残ってしまう。仮に「今を生きる」のポスターが、いわゆる「葬式仏教」に対する仏教の本来性の回復や教えの内容が直接に人間の生き方に関するものであるという主張であるならば、なんともったいないくらいの貼られ方をしているのであろうか、と思われた。

 

「人の振り見て我が振り直せ」とはよくいったものである。ひょっとしたら、中央協議会の復活祭やクリスマスのポスターについても、きっとわたしたちは「もったいない」貼り方をしてしまっているのかもしれない。

 

特定の信仰は常に非日常的な側面を持っており、だからこそ日常で一喜一憂する多くの人にとって一服の清涼剤たり得る。その一服を提供する側の人間もいわばまともな教団なら必ず普通の人たちで、外見から思えるほどの浮世離れなどない。

 

しかし、世間一般の常識論では救われない場面において、人はいつもと違った視点を必要とし、それらを通して狭い見識から解き放たれ、再び日常における生きる力を回復する。非日常的な事柄に関わる者たちが、果たして日常に飲み込まれていてもいいのだろうか。