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斎場で

加藤 豊

 

斎場はとてもエキュメニカルな場ではないかと思う。この表現が妥当でないならば、諸宗教が同時に並び立つような場と言い換えても構わない。その他にも妥当な表現があれば、それに改めることは随時やぶさかではない。

 

ともあれ、それぞれの故人の属する仏教各宗派と、それらに触れることになり、時に神式を見かけたりもする。おそらくは牧師の方々も往来しているはずだが、残念ながらわたしはプロテスタント諸教派のいずれかであれ、火葬場ではこれまで新教の皆さんと遭遇したことはない。

 

さて、一方向に並んだ炉の前で仏式と重なる時もある。リンの音が聞こえ、続いて読経も聞こえてくる。念仏、題目、真言など、よく聴いていると故人の宗派がなんとなくわかる。ふと見れば髪を剃っていない僧侶もいる。念仏宗(浄土宗か浄土真宗だろうか)等と、ふと思う(確認などできないが)。

 

かつて、今は亡き大先輩の司祭がいっていたことを思い出す。「わたしは火葬場で祈る際、いつも仏式が羨ましくなるのです。お坊さんが朗々とお経を唱えている姿はいいものです。遺族の慰めになると思います。それに対して、カトリックの火葬場での祈りは唱えていて物足りなく感じられるのです」と。

 

なるほど、確かにご住職が威風堂々と読経する場面をわたしも何度も見る。ただ、地域性なども関係するのか、実際には仏式であっても威風堂々と感じられるか否かは人による(宗派の違いというより、やはり人によるのだろう)。そしてこのところ見かける限りは、威風堂々たる姿は影を潜め、むしろ少々よそよそしく遺族との心の距離が感じられる僧侶もいるし、彼らはまた淡々とし過ぎていて、ドライに振舞っているかのような印象さえる。

 

先述の先輩司祭が感じていた火葬場における仏式葬送を前にした羨ましさというのは、今のわたしにとって実感が伴わぬものとなっている。残念だがこれが今現在のわたしの正直な気持ちである。詰まるところこれも時代のせいなのだろうか、菩提寺離れした檀家の現状も考慮するなら、要はどこも状況的に煮詰まってしまったのかもしれない。あまりにも余裕がなく、本末転倒は日常的な現象となっている。

 

教会葬に初めて参列するような人たちは、はじめは怪訝な顔つきだとしても式が終わる頃には、それとなく充実感のような趣を漂わせておられる(もちろん人による)。「教会のお葬式って明るいんですね」と感想を聞かせてくれた方もいた。葬儀が明るいはずもないが、いいたいことはなんとなく解る。そしてその何気ない発言の真意が想像通りのものであるなら、それは真にありがたい。