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小さな収穫

加藤 豊

 

先日(先月の下旬頃)他教派の牧師H先生が来られた。その先生はもちろん仕事の話できてくださったのだが、神父と牧師が会えば、当然、教派間の信仰を巡る会話にもなる。師はエラスムスの研究をしておられるようだ。長年に渡る教派間の誤解はこうした機会に度々解消されるが、その意味で他教派の方々(特に先生方)とお会いできる機会は大変重要でありがたきものに思える。

 

そこでは途中、東方正教会における「人間神化」の話題が出た。わたしの狭量な理解では、ルター、カルヴァン、ロヨラという流れの中でフラットで常識的な主張のエラスムスが、皮肉なことにこんにち、一番バランスのとれた信仰者ではないかという捉え方であったのだが、この点はH先生も同意してくださった。

 

しかし、マタイによる福音書中のいわゆる「山上の垂訓」を人間社会の道徳律のように読み取っていたエラスムスの思想が、なんと「人間神化」との関連性を持っていようとは、新たな発見であったと同時に、みずからの思考の狭さを率直に反省することになる認識であった。

 

確かにエラスムスは一般に「人文主義」といわれ、現代社会においてもそのヒューマニズムは普遍的な人間形成における徳目となる材料が多い。従って、無神論的な文明社会でも彼の倫理観は妥当性があるように思われる。ただし、よく考えてみれば、エラスムスの時代は、現代の我々の住まう社会とは根本的に違い、無神論的な思考を土台とした社会ではなかったはずである。

 

即ち、「人間形成」とは、直接に「人間聖化」や「人間神化」を究極的な見通しとする人々のもとで営まれる修養の如きものであったのだ。従って、現代にも「通用する」エラスムスとういうだけではなく、むしろ過去の尊きものを失った感がある現代が「必要とする」エラスムスという発想にわたしの目が向けられた。実にこれは小さなの回心ともなった大きな気づきであった。

 

本当のことをいうと、今となってはさほど興味もなかったエラスムスについて、もう一度、謙虚に学びなおしてみたいと思えた。