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日々の回心

加藤 豊

 

仏教学者の中村元師をご存知であろうか?今は令和のよとなった日本だが、中村師は「平成」の元号にも関わった人であった。数々の著作は(全てを読んだわけではないが)わたしの目にはどれも素晴らしいものに思えた。名前は挙げぬが、宗教学者や仏教学者と言っても色々である。幸いわたしは学者ではないため、「ひどいな」と思える人物を上げたところでわたしの主観的問題であろうが、逆に中村師の素晴らしさは広く知られるところであろう。

 

かなり昔「布教」という雑誌があった。現在の「福音宣教」誌の前身と考えればいいだろうか。編集に関わって司祭たちの多くは既に帰天してしまわれた。また、記事も、今は亡き人たちのものが(その号が古ければ古いほど)当然ほとんどである。

 

その「布教」誌に、中村元師へのインタヴュー記事があったはずだ。どの年代のものか残念ながら覚えていないが確かにあった。その中で中村師はこう質問された。

「カトリック教会の布教(当時は宣教という概念ではなかった)が進まない理由はなんだと思いますか」。

それに対して中村師は「やはり日本人の感性に合わないところと、その特徴の一つかもしれませんが、自我を剥き出しといったところが遠ざけられているのではないでしょうか」とお答えになった。

 

先ず、驚いたのが当時のカトリック教会が中村師という著名な仏教学者にインタヴューを試みたこと、そしてその内容を「布教」の記事として公にし、何やら、あたかも日本の教会に反省を促すかのような狙いがあったかどうかは知らないが、そう思われても仕方のない内容をそのまま公表していることであった。

 

第二ヴァティカン公会議は1962年に召集されている。しかし、それはずっと以前から教会内で温められてきた様々なことの表出だったのだ。だから教会は公会議を機に全てが変わるわけではなく、そのほう芽がいつの時代にも温められている。今日当たり前のように思われていることも、そこに光が当てられるまでは静かに保たれているということであろう。

 

中村師の指摘は手厳しい。ただ、全教会はこれにどこか思い当たるところがある、というくらいの自己理解がないのであれば、第二ヴァティカン公会議で確認された教会の自己理解、「旅する神の民」も単なる標語となろう。自らを深く振り返る教会の姿勢は、大聖年のヨハネパウロ二世が示した回心からも見て取れる。

 

なかには「これだから仏教徒のキリスト教理解は不十分だ」と真摯に受けとめない人たちもいるのであろう。

 

初めて教会に来た人にとって、その教会の抱える問題がどんな意味を持つだろう。どのように高尚な宣教論が整っていても、宣教の主体は人間である。もちろん教会は皆それぞれ一皮剥けば結局は善意の塊のような人の集まりでもあったりする。ただし、皆言うまでもなく欠点はあり、わたしにもある。

 

そもそも、こういう視点で考えること自体が観念的な「精神論」のごときものに過ぎず、あるいは一種のセミペラギアニスムスみたいなものなのか。しかし、教会離れをしている人たちの話をよくよく聞いてみると、実は頷けないこともない。わたしの人間形成は、わたしたちの人間形成は、整っているのだろうか?