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希望の根拠

加藤 豊

 

人間の望みの奥深くには、神の望みが隠れている、と聞いたことがあります。皆さんも多分、なんとなく思い当たるのでは、という気がしますが、あれこれと、欲しいものが浮かんでくるとします。しかし、手に入れた途端に、自分は本当にこれが欲しかったのだろうか、というくらいに「所有」は「ものの魅力」を奪います。否、むしろ感謝のうちに頂いたものであれば逆に「所有」は「感謝」の源泉ともなりますが、この「感謝」は正直いって、「所有」が当然に思えてくる頃には消えてしまいます。

 

将来、赫赫然然の仕事に着けば自分は幸せに暮らせる、とか、将来、赫赫然然が手に入れば自分は満足できる、とか、皆がそう思って、それに向けられた努力をするわけですが、本当にそうだろうか、と、時には考えてみたほうがおそらく賢明です。何故なら、多くの人が、自己実現に至った後に、自分で望んだことであるにも関わらず、「こんなはずじゃなかった」と嘆いていたりするわけです。無論、満足しておられる方々だっていますし、「そういう嘆きは贅沢からくるのだ」という見方が出来てしまいます。無事に平和に日々を過ごせれば、本当はそれだけでもありがたいですからね。

 

ところで、もし、その時々のその人の望みが何であるのかを本人が見誤ってしまう場合、確かに「おかしなこと」が起こるのです。幸せな人生を過ごしたい、そのために快適に生活したい、そのために金銭的な余裕が欲しい、そのために利益に繋がることをしたい、そのために差し当たりしなければならないことに力を注ぎたい、という図式が成り立ちますが。

 

さて、「そのために」はいったい何回出てきたでしょうか。こうして、本当の自分の望みが何だったのか、どうすれば満足や納得が得られるのか、当の本人が解らなくなってしまうという「おかしなこと」が起こります。

 

目の前のことにばかり一喜一憂することがどれほど恐ろしいことかお判りいただけると思うのですが、人の望みも神の望みも大切な何かを求めてのことでしょうから、現状では満足できず、納得もいかない、という人にはひょっとしたら、こうした祈りが有効かもしれません。

 

「主よ、わたしの望みはこれです。あなたのお望みは何ですか」と。

 

かつてある名医がいいました。「治療に困難なのは、本当のことを話してくれない患者である」と。実際そのとおりだと思うのです。しかし、こんにちでは、こういう患者も増えています。「本当のことを話したところで何のアドバイスもしてくれない医師をどう信じればいいのか」。まことに時代は変わりました。人間相手の仕事をする専門家たちが、みずからの人間形成は疎かにしてしまうのです。まさに信じられないことですが、悲しいかなそれが現代社会におけるひとつの現実です。

 

然るに、こういうケースも寄って立つところは、ういう仕事を何故その人が望んだのかという動機に還元されて評価されるわけです。本当は何が欲しいのか、望む側が熟慮しなければ混迷深まるばかりとなり、その余波も周囲に及んで行きます。

 

人が「救われたい」と望む前から、主は「救いたい」とお望みです。

 

これを神学用語では「恵の先行性」といいます。カルヴァン派の人たちは「恩寵」といいますし、類似の仏教用語(特に他力救済を旨とする浄土宗や浄土真宗)だと「回向」でしょうか。ただ、それらは両者の一致が伴わないと、たちまち「神は嘘つきだ」となるでしょう。望んだものを前に「これを望んだわけじゃない」といえてしまう人間の側のほうが、いわば「自分に対して自分に嘘をついた」ようなかたちに見えないこともないのですが。

 

「(その日)洗礼者ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。

 そして、歩いておられるイエスを見つめて『見よ、神の子羊だ』と言った。

 二人の(洗礼者ヨハネの)弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』

 と言われた」(ヨハネ福1:35ー38)。

 

「何を求めているのか」。

 

わたしたちは、本当は何を求めているのでしょうか。