加藤 豊 神父
仲の良い大阪教区の司祭がいます。彼とは神学生の頃から気が合い、特にわたしたちの間にそれらしい共通点らしきものがあるわけではなく、おそらくそれはお互いに全く気にならないことであります。更にはお互いに、別に共通点などは人間関係にあまり影響しない「どうでもいいこと」だろうと考えています。多分。
彼が高校生の頃、彼の母校は私学だったので校則は公立ほどの自由度はなく、今はどうかわからないが、いわゆる「原チャリ」で通学する生徒さんもいて、隠していても見つかって絞められる人もいたといいます。校門の前には、「バイクで学校に来ないでください。事故が起きれば皆さんのお父さん、お母さんが悲しみます」という看板が立てられてらしいのですが、実際、わたし自身の母校においても夏休みや春休みが終わって登校すると、休み中に、その種の事故で様々な不幸もあったことなどを知らされ、学校全体でビックリしたことがありました。色々な学校でそうだったのでしょう。
それでも、普段、事故も何もなければ、その立て看板は、彼にとっても、バイクに興味のない他の生徒さんから見てもいつしか「見慣れた朝の風景」程度でしかなく、自分とは無関係な横目に眺める景色となってしまっても何の不思議もありません。しかも、バイクが好きな子たちは、学校近くにバイクを隠してその後に徒歩で登校するでしょう。それだって青春の一幕としては珍しくもなく、そこには、何も恐れないような若さこそ感じられるが、悲哀など全くありません。
ところがある日、彼のクラスメイトがバイクの事故で亡くなりました。お葬式には先生や生徒が皆、悲しみのうちに沈んでしまったことはいうに及ばずですが、やはり一番やりきれない思いを抱いて皆を迎えたのはその子のご両親です。
通学時にいつも彼が見ていた校門の立て看板「バイクで学校に来ないでください。事故が起きれば皆さんのお父さん、お母さんが悲しみます」と書かれたそれは、単なる「見慣れた朝の風景」ではなくなりました。そのとき、彼は「これやったんか」と思ったのだそうです。
皆さんもご存じのとおり、新型コロナウィルスによる教会の緊急対応の期間が始まりました。こんな四旬節を迎えるとは思っても見ませんでした。灰の水曜日のミサに読まれた第一朗読「ヨエルの預言」には次のように書かれています。
「祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き、
主に仕える者は言うがよい。
『主よ、あなたの民を憐れんでください』、と」(ヨエル2・17)。
何のことやらと、ピンと来ないという人は多いと思います。遠く離れた国の昔の話なのですから。
それにカトリック教会の司祭とユダヤ教の祭司とは違いますし、教会の聖堂は、そもそも旧約の神殿ではありません。しかし、ヨエルの預言がこの日の我が身に降りかかったもののように思えてきたのです。「これがそうか」。
新型コロナウィルスによる事態の深刻さから公開のミサが中止されることになり、心中複雑な気持ちとなりながら、あたかも当事者的な感情移入のうちに「第一朗読」を聞きました。いってみればこんなふうにです。
「祭司は(司祭は)神殿の(聖堂の)入り口と祭壇の間で泣き、
言うがよい。
あなたの民を(教会に集い、ミサをよりどころとする人たちを)
憐れんでください(嘆きを受けとめ慰めてください)。」