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重箱の隅にあるもの

加藤 豊 神父

 

 「重箱」とは何か、これはその「隅」を「突つく」ということわざからも、「重箱」そのものにネガティブなイメージが付きまとうようになったが、でも、よく考えてみれば「重箱の隅を突つく」人が面倒な人なだけで、「重箱」そのものが「善い」とか「悪い」とかというわけではない。そう思うと「重箱」が可哀想になる。

 

 「突つく」人は自分には周囲の支持を得られるという自信があるからなのか、けっこう堂々と憚らずに突つく。あるいは「突いた隅」が重要なことを周囲に認識させたいと思う。要は、「重箱の隅」に何があるかは「突つく」ほうも、実はさほど重要視していない。だから「突つかれたこと」にその度、反応していると振り回されることになる。それは常に投げられた変化球に似ていることが多く、バッターは手を出してしまうとアウト(良くてファール)だ。

 

 ところで「突つく人」の「突つく動機」とは何か、「突つく」技術に長けている人のそれはむしろ職人的な匠さえ感じさせるが、この場合、問題は「突つく人」のそれぞれの真の動機や事情だ。いつだったか、「ファリサイ派の人達の言動は、重箱の隅を突つくようなことだ」といった人がいた。

 

 「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男(イエス)を信じたものがいるだろうか」(ヨハネ福音書7章48節)。もしそうなら、ファリサイ派(律法学者もか)の狙い(隅を突つく動機)は何なのか。それはイエスを嵌めることだったり、揚げ足を取ったりしたいのが彼らの真意であって、そのためにわざわざ「重箱の隅を突つく」。

 

 「我々の律法によれば、先ず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と、ニコデモはいう(同51節)。ニコデモの発言の真意もここでは見え隠れする。このニコデモの意見は、周囲の思いとは異なるが、「あっちの隅」ではなく、「こっちの隅」を突いた(指摘した)ようなものだろう。

 

 そうすると自分では隅を突いていながら、「いちいち何だ」と思う者が当然出てくる。従って変な問い返しがニコデモに向けられる―「あなたもガリラヤ出身なのか」と(同52節)。

 

 人が人に寄り添うことは言うまでもなく難しい。人は人を自分のために寄り添わせたい気持ちを人に押し付けることがある。だが、「誰も解って(かまって)くれないから寂しいのだ」と、正直にそれを言える素直な人もどうやらあまりいない。

 

 「クリスチャンは他者に仕える者だからな」と言いつつ、「他者を自分に仕えさせている」矛盾を感じる素直な人もどうやらあまりいない。だから、少なくとも自分の気持ちには正直でありたいものだ。そうすれば、かえって人は寄り添ってくれるし、そうやって自分もまた人に寄り添うことを学べる。

 

 どんな教会にも様々な活動があり、それが親睦目的なら、大概は「どなたでも参加できます」と言われていたり、書かれていた
りする。それは嘘では決してない。しかし、やはり人集めにはどこも苦労する。

 

 それは何故なのか。「さあ来い、仲間にしてやる」というのと、「よく来てくれました。あなたの仲間になりたい」とでは、ベクトルからして異なるからだ。受け入れる側の意識の問題は案外無自覚なものだ。「わたしと一緒に」では、まだ寄り添わせる側のイニシアティブが強いから、人は「着いて行けるかどうか」迷い、なかなか集まらない。「あなたと一緒に」まで、より添えれば、人は集まるだろうが、「集めたい人の主題は二の次になる」。

 

 だから「共に」という言葉で落ち着く。が、それは結局、「わたしと一緒に」の変化球となりがちだ。気持ちを言葉にしなければならない以上、言葉に気持ちを込めることもあろう。しかし、それには素直さがなければならない。

 

 何故素直になれないのかは、わりとわかり易くて、多くは何かの「囚われ」があるからだ。自分自身が、自分の正直な思いと出会わなければならないし、その上で更に他者と生きて行くこの人生において、客観的な意見には耳を傾けなければならないが、それは傷つくことが怖いときには無理だ。ここから「囚われた人」の主張の裏側に、実はその人の弱さや気持ちの余裕のなさが伺える(それは囚われている間、他人には見せたくないものとして押し込められ、否定される)。

 

 「重箱の隅」、おそらくそこには「何もない」。「空」だったりする(ひょっとしたら、「コヘレト」はそれを語るのか)。ただ、大事な「重箱」なら、隅々まで見るのは丁寧なことでさえあろう。しかし、その「隅」にあるものと、その「隅を突つく人」の思いが擦れ違う。そこには「突つく人」の心の状態、あるいはまことの動機が潜む。

 

 と、まあ、わたしも「重箱の隅を突つく」ように、「空」を突いてみたのだが、いずれにせよ、みずからの真意をみずからが承知していなければ、全ては「子供っぽい言い訳」となってしまい、常に「重箱の隅を突つく」ことだけで一生を終えてしまう。そ
れでは悲し過ぎやしないか。