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「まさか」と思しき救い―イザヤ書を通して見えてくる「満ちる時」

加藤 神父

 

 イザヤ書じたい長い全文です。その上、ここでは7章から48章までの言及となります。そのため所々(本当はこういうことは避けたいのですが)拾い上げて見たいと思います。

 

 先ず、主は意表をつくようなことを仰るので、誰にもその真意がわかりません。「わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ」(イザ41:25a)。

 

 この「北から来る人」って誰でしょう。実は、この後、根気よく読み続けていけば、既に新訳の時代を生きているわたしたちには誰にでもわかるはずですが、当時の人たちには、この時点ではまだわかりません。否、当時の人たちだけでなく、いまのわたしたちでさえも「神父さん、わかりません、誰ですか」と問われたりしますから、このまま続けてしまいますが、44章の22節及び45章の1節をご覧ください。

 

 そうです。ペルシャの王キュロスです。「主が油注がれた人キュロス」(イザ45:1)とあります。ご存知のように「キリスト」とは、「油注がれた者」を意味します。キリスト・イエスは、少なくともダビデの末裔の家とされ、ユダヤ人としてお生れになったかたですから、ユダヤの伝統的な表現である(おもに「王」を指す)「油注がれた者」であっても違和感はありませんが、キュロス王は「ペルシャ人」です。だから皆「まさか異邦人(ペルシャ人)が自分たちの解放者であったのか」という、とんでもない驚きの様子は想像に難くありませんね。

 

 司祭不足が叫ばれる昨今です。しかし日本が少子化傾向でも、日本で暮らす外国人のなかには、司祭職を志願している人たちもいます(どうかこれを国家の移民政策に当てはめないで欲しいのです)。主ご自身が用意されている答えは人間にはわかりませんが「とき」が来たときには、「なるほど」となることが多いです。もちろん「ファリサイ的反発」もありえることですが。

 

 ところで、これは後々、イエス・キリスト登場の予告編であるかのような理解となっていきます。預言者は、みずからは意図していないことを語っていることになるのです。例えば、ここでの本論からはズレますが、イザヤ書には有名な「インマヌエル預言」がありますね(7:14b)。更に、これに追い打ちをかけるような箇所が9章にも出てきます(イザ9:5)。

 

 これって、いまでは当たり前のようにクリスマスの時期に読まれるわけですが、当時のイザヤは、果たして本当に、イエスの誕生を預言してこれらを語ったのでしょうか?当時のイスラエル周辺の社会的背景に照らして、どうもそういう意図はなかったようです。イザヤは「おとめ(皆さんのお近くにおられるお嬢さん)が、結婚して男の子を産む頃には、アッシリアは滅びていますよ。だから今は変な動きをしないほうがいいですよ」と為政者や民に警告しているというのが真相ですね(どうか当時のエジプトの同盟と現代日本の日米同盟を当てはめないでください)。

 

 ただし、そこで語られた預言は、預言者の意図を超えていきます。そうです。「預言」は「予言」ではありません。預言者とは「神のことば(言)を預かる(預)人のことで、気象予報士でもなく、占い師でもありません。だから、そこで一旦預かったことば(預かって語られたことば)はもともと神のものであって、そのときに発せられて終わってしまうわけではありません。

 

 こうして、イザヤの意図を超え「インマヌエル預言」はこんにち、イエスの御降誕のときの「みことば」として、キリスト教会(新訳の時代を生きるわたしたち)においては預言の成就という理解に至るのです。従って、キュロス王によるイスラエルの解放が、こんにち(新訳の時代)人類の罪からの解放に重ねられるのは、待降節の特に典礼暦年による「聖書箇所」の並びで顕著です。

 

 さて、もう少しキュロス王の話の続きを述べたく思います。「皆、集まって聞くがよい。彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される者(これもキュロスだという説があります)が主の御旨をバビロンに行い...」(48:14)とあります。

 

 わたし自身は最初「えっ」、と思ったわけです。アッシリア捕囚とバビロン捕囚の間には約200年くらいの時間さが、「イザヤの年齢は何歳なのか」と。これまた、イザヤは三人いたらしい(第一イザヤ~第三イザヤという時代ごとの分け方なので、40章からは第二イザヤとなります)。ここでも「予言」と「預言」、「語る預言者」と「語られるみことば」の違いがお判りいただけると思います。「語られた神のことば(預言者に預けられたことば)」というのは、語る預言者の意図を超えていきます。それにしてもキュロス王をどこまでも讃えるのは、意表を突く預言であって、それはナザレのイエスが救い主であることが、その時代の人からはあまりにも意表を突くような出来事であったことに重なります。

 

 ところで、皆さんにとって、聖書の言葉が、自分の生活と重なるような経験はありますでしょうか。「預言の成就」それは何月何日という予想を基準とした「とき」の測り方では測れません。では、いつのことなのか、「そのとき」なのです。

 

 いってみればこういうことなのですが、「今日はいつお風呂に入る」とか「今日はいつ夕食を食べる」とか、そういう「いつ」は時計の針で測れるかもしれません。こういう「とき」は「流れるとき」なので測れるわけです。「この後いつ笑う」とか「この後いつ泣く」とか、そういう「いつ」は、「そのとき」が来たときですよね。

 

 こうした「そのとき」は人それぞれが迎えることになる「とき」、いわば「満ちてくるとき」なのです。今日が皆さんにとって「恵みのとき」となり、皆さんが、イザヤ書が語る「そのとき」に浴することができますように。

 

「慰めよ、わたしの民(イスラエル)を慰めよと、

(預言者のわたしに)あなたたちの神(イスラエルの神である主)は言われる。
エルサレムの心に語りかけ

彼女(擬人法です)に呼びかけよ。

苦役のときは今や満ち、彼女の咎は償われた(もう終わったんだ。充分苦しんだ)、と。

罪の全てに倍する報いを

主の御手から受けた、と(その「とき」が来たんだ)。」 (イザ40:1-2)