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今年の四旬節②

加藤 豊

 

「主の死を告げ知らせる」というキリスト教信仰の重要なテーマを思えば、四旬節がいかに重要な季節であるかがわかります。もちろん、死から命へ、罪から恵へ、闇から光へ、という過越が全体を貫く命題なので、「主の死」だけでは事足らず、「主の復活」が語られねばならないのはいうまでもないことです。

 

今は亡き、ある司祭が、その年の四旬節第一主日のミサの折、開祭の挨拶で次のように話していたのを今でもわたしはよく覚えています。

「四旬節といえば、犠牲、償いの季節、確かに、そのとおりです。しかし、それ(四旬節)は洗礼志願者と共に過ごす季節なのです」と。

 

第二ヴァティカン公会議の後、入門者へのカテキズム制度は充実し、その見える形でのセレモニーが、四旬節中の洗礼志願式などです。先述した神父様のそのときの訴えは、わかりやすさも功を奏し、その教会の人達の四旬節理解を深めていきました。

 

ところが、思わぬ結果が出たのも否めませんでした。即ち「四旬節」は「洗礼志願者と共に過ごす季節」という一点に理解が偏り、「犠牲、償いの季節」ではないかのような認識に変わってしまったのです。求道的な心ある信徒の方々からすれば、第二ヴァティカン公会議後に具体的にどのような考え方が教会の主流なのかという問いは切実なものであります。ただし、それが罷り間違うと「今はどうなっているのか」という変遷箇所だけに主眼が置かれ、「今はこうなんだってさ」という表面的な回答がそのまま一人歩きをするようなことになってしまいます。

 

中身が大事だとばかりに、中身を残してパッケージを取り去ったら、なんと中身もなかったことに気づいた、などという冗談があるくらいで、これは逆説的だが、パッケージをいとも簡単に取り去ってしまうことの危険性を伝える教訓ともなるでしょう。

 

「犠牲、償い」の中身はなんでしょう。形は「大斎、小斎」などで示されましたが、その究極的な目的は、主の救いの業への参加です。だから「四旬節、愛の献金で犠牲を行ってもいい」となるわけです。

 

前回、簡単に紹介させていただいた教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅、「サルヴィフィチドローリス(邦題「苦しみのキリスト教的意味」内山恵介師訳)には「主の苦しみへの招き」という表現が出てきます。

 

先にお話しました今は亡き神父様は、司祭になりたいことをご両親に打明けたときに、「何が悲しくてヤソの坊主になりたいのか」といわれたそうですが、まさに一昔前は、司祭になるとか、修道院に入るとか、そういうことは熱心なカトリック家庭の土壌がない限り、一種の狂気の沙汰だった時代がありましたし、今尚、それは地方によっては残っていると思います。

 

いうまでもないことですが、人生とはかくも不思議なもので、幸せだけを求めていて幸せになった人はなく、自分のことだけを考えていて自己実現できた人もいません。この不思議(でもなんでもないわけですが)について、わたしたちキリスト者は「共通善」と呼んでいますし、仏教徒は「自利と他利」が一つのことであると説明しているようです(これは以上の解説などは「諸宗教対話」のほうで触れます)。

 

主のご受難への招きに応じることは、世界中の苦しむ人との共感に至らしめるまでの入り口に足を踏み入れるきっかけとなるのでしょう。しかし、現代人であるわたしたちは、地理的な遠い隔たりがある中での連帯を通信手段でしか認めませんから、「そんなことをしてなんになる」という疑問が即座に浮かんでくるわけです。生物学に詳しい人ならわかると思いますが、生物の生態において、離れた地域にあって何故か同じ時期に同じような現象が確認されることがあることを知っておられるはずです。もちろん、これを信仰の問題に当てはめてはいけないでしょうし、先ず、生物学者が真っ先にこれに反対するでしょう。

 

それはともかく、贖いの業への参加という「中身」は、大斎、少斎という「形」で行われてきたわけです。従って、プラクティカルな思考の現代人から無意味なこと扱いされてしまう「心構え」という意識の状態が、ここでは一番重要なものとなります。

 

こうした意識付けに向けて、四旬節の黙想会などが各地で企画されますが、実はそれさえも形骸化に晒されています。形骸化を防ぐためのものが形骸化してしまうとは、どうしたことか。これまた、この点にだけ注目して話をすると、別の内容の文ができてしまうので、ここまでにします。

 

結びとしてこういうことがいえると思います。全体的な教えに関して「光だけでは不十分である」、「復活だけでは不十分である」、「恵だけでは不十分である」、「命だけでは不十分である」と。まさに死のない生はなく、生のない死はありません。生身の人間であればそこにリアリティーがあるはずです。受難のない復活に(少なくとも贖いの業の真意からすれば)何の意味があるのでしょう。

 

必要に事欠くじたいが人類規模で常にあるからこそ、一人一人が祈りを捧げ、祈り合います。一人の人の苦しみも、実にその人が人間であることから生じる苦しみなので、人間の苦しみが人類規模で緩和されなければ、その人の苦しみも(一時的にはともかく)最終的には緩和されないままとなりましょう。

 

四旬節は「洗礼志願者と共に過ごす季節」であること、と、「犠牲、償い」の季節であることは一つのことなのです。