· 

「聖書の中に侵入するが如き想い」

加藤 豊 神父

 

 素麺は夏に食べるから美味しいと思いますし、鍋物は冬にはいっそう美味しいでしょうね。「食」には「とき」があるのかもしれません。

 

 さて、わたしにとって、おそらく今でも一番仲のいい司祭仲間は、大阪教区のS神父だろうと思います。S師は現在、大阪でも大きなT教会の主任司祭をしていて、時々、電話で長話をします。神学生の頃からそうでした。当時は電話で長話どころか、神学院で共同生活をしていたわけですから、その頃は二人してよく語り明かしたものです。

 

 S師の視点は独特で面白く、その感性はいまも変わりません。いつだったか、S師は高校時代の話をしてくれました。

 

 彼が高校生の頃、学友が夏休み中に亡くなったのです。彼の母校では、校門にいつも「バイクで登校しないでください」という立て看板が設置されていたといいます。しかし、いつもいつもそんなものを見ているものだから、次第に気にならなくなっていきました。

 

 彼は自分ではバイクになど乗らないし、そのような生徒にとっては、看板はいつの間にか、見慣れた景色となってしまったわけです。書かれている文字だって、そもそも該当しない生徒たちにとっては、初めからリアリティーなどありません。

 

 しかし、夏休み中、彼の学友がバイクの事故で亡くなったのです。葬儀には、亡くなった生徒のご両親が泣きながら佇んでいたといいます。その場にいったS師はハッとさせられました。浮かんできたのは校門の立て看板の文字でした。そのときには、いつになくとんでもないリアリティーを伴って、看板に書かれた文がS師の心に突き刺さったのです。

 

 「バイクで登校しないでください。事故が起きれば、皆さんのお父さん、お母さんが悲しみます」。

 

 このときの体験を、S師は「聖書の言葉と同じやねん」といって語ってくれました。わたしたちが読んでいる「聖書」、その内容は遥か昔のもので、文化圏が全く異なる地域で書かれたものです。よくわからなくて当然なのです。だからリアリティーがない。

 

 「わたしたちは神の民。その牧場の群れ」(典礼聖歌172番)と歌ったところで、それは遊牧民族だったイスラエルの文化的背景から生まれた歌詞だから、農耕民族たる東アジアのわたしたちからすれば、実感のこもった歌唱は難しい。


 「まことに主こそ我らの神、私たちはその牧場の民、御手の羊」(詩95・7)と、ありますが、少なくともわたしも、わたしの先祖も(おそらく)羊を飼ったことなどありません。

 

 では、「わたしたちは神の米、その田んぼの稲」と、日本風に変えてしまえばリアリティーを感じることができるのかといえば、それも違う。ミサで祭壇に供えられるのは「パン」と「ぶどう酒」です。それを「五穀」と「清酒」に変えてしまえばいいのかといえば、それでは意味が無い。

 

 概ね、漠然と「ピンとこないまま」に、「みことば」を覚えては、それをリアリティーをもって実感できる「とき」を待つのみです。しかし、そうしておけば、いつの日か、「聖書の言葉」が、みずからの体験と重なり合い、「これかっ!」と受け止められる「とき」がきます。

 

 そのとき、わたしたちは、そのみことばを味わうだけに留まらず、まるで「聖書の中に侵入するが如き想い」となるでしょう。