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聖金曜日に習う日々

加藤 豊 神父

 

この度、新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、カトリック東京大司教区では公開のミサの中止を各小教区に公布し、結果わたしたちは、しばらくミサのない日々を過ごすことになりました。

 

もともと、ミサができない日があります。年に一回必ずあります。それが「主の死」のみ記念する「聖金曜日」です。そうです。「ミサ」(感謝の祭儀)とは、「主の死と復活」を記念する儀式です。聖金曜日は「死」(ご受難を含めて)を記念して、復活の記念は翌日(聖土曜日~復活徹夜祭)から、その次の「復活の主日」に祝われます。ミサができるようになるのです。

 

時々、こんな問い合わせのお電話を受けます。聖金曜日に、であります。

「今日の夜のミサは何時からですか?」

受けたほうも、えっ、と思うわけです。

「本日ミサはございませんが」とお答えすると、

「そんな、だって今日は『♩見よ十字架の木~』ってやる日でしょ」。

そこで、

「ああ、あれはミサではなく『主の受難』という礼拝なんですよ」というと、

「だってご聖体いただくじゃない」と、とその人。

なので、またそこで、

「もちろん、聖体拝領はありますが、それだけではミサとはいいません。昨日(聖木曜日『主の晩餐のミサ』)で聖別したご聖体を、今日、いただくわけです」。

すると、「へ~、そうなんだ、知りませんでした」。

「ちなみに、今日の聖金曜日(主の受難)の典礼は午後7時からです」。

「わかりました。ありがとうございました」。

 

今回は、公開のミサ中止、ということなので、主日だけでなく公開であれば週日もこれに含まれるのですから、毎朝ミサに出席している人(修道者に限らず)からすれば、まるで、「ミサをしてはいけない日である聖金曜日」のような日々が続いているような感覚ではないでしょうか。最も、そこまでのミサ理解に及ばない上記の例もあるわけですが。

 

もちろん最近では、主日であってもミサが行われない(というよりそれが無理な条件下に置かれた地方の)教会や司祭不足ゆえに、主日は月一回のペースでミサの代わりに信徒が司式する「(聖体拝領を伴う)集会祭儀(言葉の祭儀)」を行なっている、という共同体もあるでしょうから、あまり「あるのか、ないのか」だけを共同体的な問題にしわ寄せしてはいけないとは思いますが、こうしたときに、わたしたち一人一人が自らのミサ理解を振り返り、ミサとは何か、といったことを、より深く味わうための準備としたいと思っています。

 

ミサが共同の祈りのかたちを採るのはいうまでもないことですが、一人一人の思いには色々な差があることでしょう。人によっては、日々の労苦の慰めとしての心の拠り所、また、人によっては習慣的な営み、また、人によっては何かのお恵みをいただくための場。これらは確かにミサがもたらす諸要素ですが、むしろミサはこれら以前に「捧げる場」です。

 

皆さんにとって、「いいミサ」とはいったい、どのようなミサをしてそう思っておられるでしょうか。「歌が綺麗」、「説教が面白い」、「朗読や奉仕が丁寧で整っている」、「深く祈れそうな雰囲気がある」、「儀式もさることながらその前後の対応が親切だ」、などなど、でしょうか。確かに、そういうものが望ましいかもしれないが、本来のミサの重要性はミサそのものにあるのであって、それ以外のオプションの部分にだけ「良さ」を見出しているとすれば、そうでないときにミサから離れてしまうようなことも起きてしまうかもしれません。

 

そもそも、今回のようにミサが行えない状況では、あれこれいっていられなくなるわけですが、また、ミサが行えるようになったとき、わたしたちのミサ理解が少しでも熟したものとなっていれば幸いです。わたし自身も、今回そうした思いで改めてミサを理解し直したいと思っています。