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「見る」と「観る」

加藤 豊

 

四旬節第四主日の福音箇所(ヨハネ9・1-41)について
(当日の『聖書と典礼』とご一緒にお使いください)

 

 

 「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9・39))。これはいったいどういうことか。こういう「物言い」はこの日の箇所以外にも出てきます。例えば「だれでも持っている人は更に与えられるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(ルカ19・26)とか「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20・16)とか。

 

 事態の終息がなかなか「見えない」この度の新型コロナウィルスに伴う数々の影響は多方面に及んでいます。普段から「見えている」ものには無意識に「見えている」と思い込んでいるわたしたちにも、本当は「見えていない」ものが何と沢山あることか、と、こういうときに気づかされます。新型コロナウィルスの脅威との格闘はもはや人類規模ですが、それでもわたしたちにはこの先のことがよく「見えない」でいるのです。「見える」ようにはなりたいものだが、今のところ誰にも解らず、解ろうとする人たちはテレビやスマホから眼が離せず、新情報に日々余念がありません。

 

 実はそのような営みを通して今度は逆に普段「見えていない」ものが「見える」ようになったりします。こうした事態というのは100年に一回、否500年に一回あるか無いかといった出来事で、それに遭遇するわたしたち一人一人の「受け止め方」というものは「見える」かたちで現れます。こういう状況では普段あまり心に浮かんでこないことが浮かんでくる。それが好むと好まざるとに関わらず眼に入る(意識される)のです。感染対策についても世界各地でかなりの差が「見える」。もっともこれは「一律」には決められない類のものでしょうから、その場その場での臨時対応が迫られ、「答えが一つ」に絞れないような事柄を蓋然性に基づいて、暫定的な結論を出し、とりあえず話を一歩前に進めている、というのがそれぞれ置かれた場での現実なのでしょう。

 

 職場であれ、学校であれ、そこに画一的な解答を当てはめることは困難で、大まかに掲げられた公の示唆や指示を具体的に消化するのはその場にいる人たちです。その判断がベストなものだったのか、どうなのか、後から不安になったりと、それだけでも立場ある人の緊張感は深刻な懸念に更に重なる懸念です。先が「見えていない」なか、基準も「見えない」ときに、人の心が「見える」こともあり、これまた普段は「見えていない」一面です。

 

 さて、この日の福音の内容ですが、ファリサイ派の人たちはこう考えました。どんな問題でも「一律」に「答えが一つ」で割り切れる、そうでない場合はそこに物事を無理やり落とし込んで整合性を着ければいい、と。これは「見えている」と思い込んでいるからこんな発想になるのであって性急で乱暴な見解といわざるを得ない。人の眼はその対象を見ます。焦点を合わせたものを「見る」のが人間の眼です。だから人間の眼は一眼レフのカメラと同じです。対象となっているもの以外は近くにあっても正確に「見えている」とはいえません。わたしたちにとって今、人類規模で一番の関心事であるはずの問題がこの後どうなるのかについて誰にとっても間近にありながら「こうだ」といい切れないほどのものとなっているように「見えていない」ことを、あたかも「見えている」ようにして振る舞うことは今も昔も周囲に混乱を招くもとです。

 

でもファリサイ派の人たちは何事にも「一律」に「答えが一つ」とばかりに「こうだ」といいたい人たち。その断定の根拠は「自分が今『見えている』ものだけが世界の全てだ」という錯覚ともいうべき奢りです。この時点で「井の中の蛙」だと自分から宣言します。彼らには全てが「見えている」つもりでも、それは所詮一眼レフのレンズで見たものでしかなく、しかも自分で自分がよく「見えていない」でいていろいろ他人にも押し付けるので当然おかしなことになります。よく「坐禅」の世界でいわれる「ありのままの世界」からはかなり程遠い彼らだけの勝手な世界で、これは人間が陥り易い虚像です。

 

 ところで、日本語には「見る」という言葉と、また、「観る」という言葉もあります。仏教では観音様という仏様が拝まれますが、「世」の「音」を「観る」というお名前です。「えっ?」と思いますよね。「音」は「聴く」ものだから。少なくとも通常「見える」ものではありませんね。しかし「見えない」としても「観る」ことは出来る。現在わたしたちの世にはどんな「音」が鳴り響いているでしょうか、それはいわずと知れた新型コロナウィルスの影響で困惑する政界、財界、スポーツ界、興業エンターテイメント業界の音、そして神社仏閣、教会からもその「音」が発せられ、多くの人から等しく同じ「音」が上がり、それをわたしたちは「観る」のです。この先の具体的なことはまだ「見えていない」のですが、なにやら、だんだん「観える」ようになってきたようにも感じられます。

 

 皆さんは如何でしょうか。至る所で取り組む自助努力が「観える」。微に入り細に入り、注意深く、慎重に手探りで前に進もうとするわたしたちの「受け止め方」そのものに変化が起きているからともいえますし、事態を「観る」わたしたちの「受け止め方」がそれまでと違ってきたからだともいえるでしょう。いうまでもなく、ここで楽観論などをお話しするつもりはありません。相変わらず公開のミサを挙げられない事実には何ら変わりはありません。ただ、そうであっても、わたしから「観える」教会においては皆が段々とこんな風に考え始めているように思われるのです。「わたしたちは今、問われているのではないだろうか、ミサとは何か、秘跡とは何か、そしてそもそも教会とは何か、信仰とは何か」といった具合にです。このような「受け止め方」は公開のミサ禁止の知らせが最初に発表された先月2月27日(木)の段階では身近な人たちからは聞くことができなかった感想です。そのときにはまだ事態を受け止めるだけで精一杯だった人が多かったと思います。しかし、最近では身近な人たちと話していてこれを耳にします。「わたしたちは今、問われているのではないか」ということを。これは明らかにわたしたちの事態の「受け止め方」に変化が起きているということであり、「見えていない」ものが「観える」ようになってきたと思える変化です。

 

 ファリサイ派の人たちは、すぐ眼の前にいるイエスが「見えている」はずなのに、いつまでも「観る」ことができませんでした。その一方で、生まれつきの盲人はイエスがよく「観える」ようになりました。これは両者のメシア観の相違、イエスを巡る双方の「受け止め方」をよく表しています。「観える」ようになったその人はイエスがメシアであることを体験的に知るに至りますが、他方はじめから何でも「一律」に断定してしまうファリサイ派の人たちは、といえば、その囚われから理解力が曇ります。それは彼らの視界をも曇らせ、大事なことを何も「観る」ことができずにいます。特に自分が「観えていない」。自分が「観えていない」のは多かれ少なかれ人間の弱さによるもので、他人を批判してばかりはいられません。

 

 わたし自身も忙しさに追われていると、どれほど気をつけていても心が曇ってしまうということがあります。皆さんは如何でしょうか。最初にミサ中止と聞いたときの衝撃からは各々少し落ち着いた気持ちになられたとお察しします。いうまでもなく、だからといってこのままでいいはずはありません。では、差し当たりどうすればいいのかというと、先が「見えない」ことで苛立ったり腹を立てたりしてはならず、そういうときにこそ「観える」者となることができるようにと祈りましょう。