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コロナ終息後の諸宗教対話はどうなるか

加藤 豊 神父

 

――いつの時代にもある教会の「対話と宣教」という視点の欠落と、その「回復」のための「刷新」について――

 

 まことに機が熟していない。否、こういったほうがいい。「臨界点にはまだ時間がかかる」。

 

 何の「臨界点」か、その前に「終点に向かう動きとその反動とは比例する」ということを確認しておきたい。「右足を上げるためには左足を踏ん張らねばならず、左足を上げるためには右足を踏ん張らねばならない」というわけだ。

 

 長い歴史を持つ教団であればあるほど、その長きに渡る時間のなかで、失敗と思しき「非本来的」な姿を繰り返してきており、それは洋の東西を問わず、担い手が人間であるから当然といえば当然の結果となる。よく「神様じゃないんだから」と、人間存在の不完全性を言い表そうとする表現が用いられる。

 

 その表現に基づけば、そもそも、どのような「信仰」も、それを生きるのは不完全な人間でありながら(というか「だからこそ」というべきか)、その「信仰対象」についての「一種の完全性」に頼る道が説かれ、人々はそこに救いを求める(あるいは「自らの一種の不完全性を受け入れる」仕方で)。そのようにして救済のプロセスが展開される。そしてそこには必ず人間的な成熟度や「救済された者」あるいは「救いの必要を自覚する者」に顕著な気配ともいうべき「祈りの人が持つ外観」が漂い、これはやはりいうまでもなく洋の東西を問わないものといえるであろう。

 

 「既存の宗教は皆一応に賞味期限切れである」といった宗教学者がいる。この発言を上述に記した内容と重ねてみて欲しい。もう、お分かりであろう。

 

 例えば、「教会の実態は共同体」即ち「人」である。従って教会に魅力がないということは、実態である「人」に魅力が感じられないということになってしまう。しかし、これを集団制に伴う「他人事」が曖昧にしてしまう(集団の実態も実は「人」であるはずなのだが)。それゆえ、「教会を(宣教や対話という目的から)「よくしよう」とする「人」は必ずしも「よくなりたい」という「人」と同一人物ではないままに物事が進む、ということにもなるから、結果として(円熟した人物はどこの教団にもいるわけだが)共同体的な円熟度が足りないままともなろう。

 

 「足りない」だけならまだいい、悲しいかな悪化してしまうことさえある(繰り返すが人間がその主体となる以上仕方ないこともまた歴史を見れば明らかなのだ)。だが、もうすぐではないかという気もしている。「悪徳(不徳)が極まりしときには(上述の理屈から)善徳も極まろう」と思われる。数々の「こちらが平身低頭したくなる信者」もいる。他宗教も事情は似通っているだろう。しかし他方で外部に「躓きをもたらす者」は多いであろう。これまた他宗教も事情は似通っているだろう。

 

 今やイデオロギーの時代ではないといわれる。だから「階級闘争」に当てはめられる人々もまた「職業」や「身分」で割り切ることは出来なくなっている。ようは「虐げられ、搾取(知的財産が考慮される今「精神的搾取」もこれにカテゴライズできよう)されているのは誰か」である。

 

 司教、司祭、信徒、という分類に、いわゆるマルキストの「階級闘争」をオーバーラップしても、その基準が財産や社会的身分であるならば、順番は、こんにちおそらくそれは、信徒、司祭、司教となるであろうから、かなりナンセンスなことになるいわゆる「聖職者」は現代、多くの場合、善意の信徒からの献金でお世話になっているのが現実であろう(フランス革命以前の社交界専門の司祭などおらず、また、いたら困ったものである)。

 

 しかし、「対話と宣教を意識して奉仕する側」と、「サービスのみを期待する側」とを二分することはいとも簡単である。それは「信徒も司祭も司教も」関係なく、それぞれに分かれてしまう分け方であって、これをパウロ六世がいう「位階構造を凌駕する霊的広がり(カリスマ構造という解りにくい概念だが)を持つ教会」というテーマを想起してもらってもいい。

 

 もうすぐだろう。なぜなら「人」は危うくなっても大事に思うものなら守ろうとするだろう。ただし、危ういのだから(これは善意からいうのだが)逃げたほうがいいと思うなら、そうしたほうが善い。そこからか刷新される物事はおそらくかなり多い。「持っていたほうがよかった時代」は過ぎ去った。「手放したほうがいいと思える時代」は既に来ているといえるだろう。物事が刷新されようとしている。

 

 ただ、そのような事態に接したとき「もう信仰から離れたいと望む人」に相対し、人多くの教会人は一旦は「よく考える」ことを勧め、それらの人々のために祈りはじめるが、心ある人なら現状についての「取り繕い」はしないであろう。この「取り繕い」が、まだまだ罷り通っていることはいうまでもない。いったい「規模の縮小」は悪であろうか。わたしはそうは思わないしかしそれを恐れての「取り繕い」は概ね「嘘っぽい」という点で「取り繕い」は善ではない(大きな建物であればあるほど少人数では維持管理が難しい。結局、後の人々に多大な宿題だけを残すだろう。「誰でもいいから人数を増やせ」と維持管理だけに夢中になる程「初心」は揺らぐだろう)。

 

 「取り繕い」しかしないなら「守る者」にも「そんじゃあ、や~めった」という者にも、実は不幸なこになりかねない。少なくとも、それは「対話」の前進とはならい。つまり「諸宗教対話」にはマイナスである。そこからは諸宗教が「対立」ではなく「協力」し合うために最低限必要な「人」としての礼節をことごとく欠くような身勝手さを浮き彫りにしてしまうと思われるし(幸いそういうタイプの人は「諸宗教対話」に興味がないが)特徴的な「まなざし」から「非本来的」に変質したカトリックの現実と、教会(先に記したとように全体ではないとしても)共同体の「人の姿勢に由来」するであろう慢心しか生じて来ないのではないだろうか。