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現代型複合的俗信被害

加藤 豊 神父

 

 ここに書いたことは、現場で司牧(牧会)に当たっている神父や牧師なら、すぐにわかる話である。しかし、果たして上からの景色しか見えねいところに置かれた人たちはどうなのか、それはなんともいえない。あるとき教会に電話があった。用件は「母子で洗礼を受けたい」というものだった。理由をよくよく尋ねてみると、「子供が黒魔術の影響で苦しんでいて、洗礼を受けてその苦しみから逃れさせてやりたいから」だという。更に詳しく話を聞いてみると、電話の主であるその子の母親はミッションスクールの卒業生だった。その関係の何人かの知人に相談した結果、教会に通うなら家の近くの教会がいいからといわれ、この教会に連絡してきたらしい。

 わたしは、どんなに迷信的に思えるような話でも、頭からそれを否定しない。自分の知っている世界など限られたもので、人間には知らないことのほうが多いだろうと常々思っている。加えて、その人が感じているリアリティーというのは、何であれ、否定できないものだろうと思うからである。しかし、いろいろ詳しく話を聞いていると、どうも解せない。先ず「黒魔術」とはいうが、それに伴う「おフダ」をある仏教寺院で発行しており、それを近所の人が計らずも入手してしまい、子供(男の子)の苦しみ(体
調不良)は、その間接的な影響で生じているという。「まともなお寺さん」であれば、どんな「寺院」であれ、祟りの「フダ」など配らないし、そもそも西洋に起きた魔術など、日本のお寺とは無関係である。

 魔術について、彼女(母親)がどれほの知識を持っているのか、と思いきや、「アレスター・クローリー」のことさえ知らない(この人の説明はここでは省くが)。わたしは「お寺では黒魔術なんて扱いませんよ」と申し上げると、「ああ、そうですね」と。無論「怪しげな呪術的行為の総称」としてそれを「黒魔術」と銘打っているだけだとしても、安易に物事を捉えすぎているところは明らかだった。

 「しっかりした医療機関に息子さんを診てもらいましたか」と問うと、「診せましたが、どこも異常はないといわれました」という。決して嘘はついていないように思うし、気持ちの上ではそうだろう。それどころか内容以外は常識的な会話で通じる人である。最終的にわたしはこう申し上げた。「息子さんを教会にお連れしてくだされば、祝福のお祈りはして差し上げることは出来ますよ。ただし、それはいわゆる悪魔払いとは違います」。加えて「黒魔術に対抗するものとして白魔術なんてものもあるが、そういった話は現実の教会では全く話題になりませんよ。それに、息子さんの体調については、本当に黒魔術の影響によるものかどうかは専門的な調査が必要かもしれないし、わたしは専門家ではありませんので、出来ることといえば、あなたの息子さんのためにお祈りしてあげることです。

 

 早速、今日から祈りますから、お子さんのお名前を教えてください」と。すると相談者は子供の名をわたしに教えてこういった。「いま、わたしはどうすればいいですか」と、そこでわたしは「洗礼を受けて全ての問題が即座に解決したという人は先ずいません。それに、あなたが洗礼を受けたいというのであれば、一番大事なことは、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることであって、洗礼を自己流に理解してはいけません。無論、黒魔術のことを何もご存知ないのに、それを安易に自己流に解釈してはいけません。いまはその上で、お子さんの側に立って、主イエスに信頼して祈ってあげることではないでしょうか」と。相談者は、会話において「実に真面目」そうで「変わったところがある人」には思えなかった(しかし、ひょっとしたらお子さんに起きている事象の背後には、何らかの形でこの「親御さんの一種の真面目さ」が関係しているかもしれないのだ)。

 何日か後、わたしの不在中、その方(相談者)は教会にやってきた。同様の相談内容を「その方の知り合いのシスターに再度相談してみて、更に(シスターから紹介されて)小教区ではない都内カトリック施設に行き、某師に同様の相談をした後に」である。そして(あくまでご本人がいっていたことだが)やはり「洗礼を受けたいなら最寄りの教会にいってみたほうがいいといわれた」という。その日わたしは、この話を人伝に聞いた。わたしはてっきり「この子のために祈ってください」と、お子さんを連れてこられたのかと思ったら、お一人で来て上記の話をして洗礼を希望し、その「裏付けとして」上記アドバイスを取り上げたらしい。対応した信徒の方のその対応が妥当だったことから、洗礼についての本来の教会の考え方を知ったのか、その後、少なくともこの教会には連絡がない。

 ようは上記のシスターや某師のアドバイスである「とにかく教会へ」的なご発言から、わたしが率直に思い浮かべたことといえば「とにもかくにも、その人は悩んでいるのだから、最寄りの教会に通って、差し当たりそこで話を聞いてもらい、勉強会などでキリスト教(カトリック教会の教え)を学んでみてはどうか」というニュアンスを含む「勧め」を受けたのではないかと思う。結果、相談者は(住居から近い最寄りの)この教会に、実際に(電話だけでなく)やって来た、というわけだ。その「上記シスターと某師の勧め」とは、具体的には(だいたい相談者の証言と同じだが)「洗礼を授けるかどうかは現場の神父に任せ、差し当たりその人の悩みが信仰伝達によって解消される可能性があるなら、そのようにし、その結果、信者となるならそれもいい、という考えによるもの」だったのだろう。

 確かに「きっかけ」と「入信までの期間」に「それまで話していたこと」が変化するというのは多い例である。ただ、それは、「きっかけ」と「入信までの期間」の間に、もともと何かの一貫性があるからで、そうでない場合その人は途中で抜けてしまう。途中で抜けてしまう人がいても、教会はその人がまた訪れることを待つが、いすれにしても本当にその人が抱えている悩みの本質的
な部分がとても根深いところにある場合、その人の人生そのものの重荷全てを肩代わりして背負うことを教会側が請け負うとしたら、それは傲慢そのものではないだろうか。

 それに「これこそ」が、ここで話したいことの中心なのであるが、すなわち、「黒魔術」といわれるものが「人間的努力(医療行為も含め)では、そこから逃れられない呪縛」だ、という思考と、それに基づく「黒魔術」への非妥当な認識と、その発想、それらはいったいどこから来たるものか。ということ。また「洗礼」による悪化の改善を求める多大な期待(生き方や人生観とは無関係な)などは、いったいその人の何に由来するものか。ということなのである。助言よりも自説をもとにした解決策を好む傾向は、現代人の特徴ともいえるが、なかでも「他に原因が何かあるかもしれないと模索すること」よりも「思い込み」のほうを選択する「時間をかけない解決法」の探索などは、簡単なのである。しかし、当初「簡単だと思われていた解決策」について、そもそも無知であるから、結局は無残にも、その人はもう一度「原因究明」を突きつけられることになってしまう。

 「黒魔術」は、こんにち小説やアニメにも登場するが、それらはよっぽど稚拙なものでない限り、かなりその歴史やエピソードや関連人物、実際に起きた不可解な事件などをよく調べ挙げてから題材としている(教会の見解としてそれを褒めていいかどうかはともかく)。しかし、多くの読者や視聴者たちがそんなところまでこだわって読んだり見たりするはずもなく、ゆえに漠然とした記憶として保存される。逆に仏教やキリスト教といった伝統宗教についても教義内容に詳しい無宗教の人はすこぶる多いこともあり、まことにこうしたことは人によるのだ。

 ところで、一部のミッションスクールでの昔の宗教教育+現代世界における宗教的世界観の崩壊+自分教ともいえる「現代の迷信の如き数々の未整理で未分化な観念」が、現代人(特に現代日本人)を取り巻いているのが「いまの世」であろう(宗教的無知はその人をカルトに向かわせるが、その理由の一つもここにあると思われる)。

 そこで「あなたの知らない世界」ともいうべき「自分では情報処理仕切れない事態」に襲われたときには、当然「あなたの知らない世界」ともいうべきものに救いを求めることになろう。これに漠然と「わたしの知っていることが全てでしょ」という多少なりとも横柄な世界認識」が加わり、それがもたらす皮肉な罠が用意される。「あなたの知らない世界」など、本当はいつまでも「あなたの知らない世界」のままなのだ。という「謙り」がないために、こんな「皮肉」なことになる。だからこれらは単に「その人の感性が迷信的だから」でも、「その人が夢想家だから」でもないのである。

 しかも、それにも気づく機会はなく「詳しくはわからないけど、なんとなく知っている」というその自己流の尺度のままだから、東洋における道教や日本仏教(特に密教や古くは陰陽道など)で用いる古’(いにしえ)からの「おフダ」と、西洋近代において勃興した「黒魔術」とを、しっかりとした根拠もなく同じパラダイムに乗せてしまう。予備知識もなしに、そんなことが勝手に行われる。

 最終的には特異な主張がなされる。しかし、本来の「おフダ」や本来の「黒魔術」などとは無関係な内容が表出する主張である。それらとは全く異なるものが、なんと「その名で呼ばれる」ことになる。これはいうなれば「現代型複合的俗信被害」ではないか(その意味では「妖怪」という言葉もあまり不用意には使えなくなってしまった。いい出したらキリがないが)。

 更に、これが、かなりよくないのである。即ち、その人の心を解きほぐすべき立場の人たちが、普段は「洗礼の迷信的理解」を必死に否定してかかるのにも関わらず、みずからも似たような理解を相手に遠路なく伝えてしまうことに無意識なこと、これである。これでは相談者と共に問題の本当の原因究明を探す手伝いなど、出来るはずもない。わたしたちは相談者を見捨てるようなことをしてはならない一方、他方で「現代型複合的俗信被害」を拡大することに加担したり、その被害者を増やしてはならないであろう。