· 

唯一の真の神の存在を知ること

G  .T  .

 

 先月、「5万年に1度しか見えない緑の彗星が接近。2月には肉眼で見えるかも」という世界中の天文学界やファンの注目を集めるような報道がありました。彗星の名前は「C/2022 E3(ZTF)」。このZTF彗星が1月12日に太陽に、2月2日に地球に最接近し、適切な環境条件下で暗い夜空に肉眼でも見えたと報じられました。

 

 昔から宇宙や自然界に少しばかり興味を持っている私ももちろんこの報道に注目しました。そして、神様がまたも人類にその無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見せてくださったことに感謝しています。ちなみに、ちょうど3年前にこの「わかちあい」でこれをテーマにしたコラムを書かせてもらったことがあります。(「神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る」)。

 

「制限された」神を求めていないか

 

 「神はどこから来たのか」「科学は証拠に基づいているが、神が存在する証拠は何か」 といった疑問は、古来より多くの人々によくされてきました。しかしよく考えてみれば、そのような問い自体は「制限された」神を前提として、人間やすべての被造物や宇宙が存在するのとまったく同じ時空の中で、神の存在や証拠を求めることを意味しているのではないかと思います。もし神が時間、空間、物質の影響や制限を受けているのであれば、当たり前のことですがもう神ではありません。

 

 時間、空間、物質は、いわゆる「連続体」と呼ばれるものです。その三つが同時に存在しなければなりません。もし物質があって空間がないとしたら、それを「どこ」に置くでしょうか?もし物質と空間があって時間がないとしたら、「いつ」それを置くのでしょうか?時間、空間、または物質が単独に存在することはできないのです。

 

 「初めに神は天と地を創造された」(創世記1:1)。聖書のこの書き出しには三つのことが明言されています。永遠の神は、ご自分以外のすべてのものが存在し始めるようにしてくださいました(『カトリック教会のカテキズム』、290項)。「初めに」 には時間があり、 「天と地」 には空間と物質があります。時空や宇宙、天地のすべてを創造された神はそれらを超越しなければなりませんし、時間、空間、または物質によって制限されたり影響されたりすることがありません。

 

真の神の存在を知ることができるのか

 

 「神は五感で観察することも測定器で検出することもできないため、神が存在することを知ることができない」、あるいは「神が存在すると信じる合理的な根拠がない」と否定する人がいるでしょう。確かに、神は物理的な存在ではないので、そのような方法で知ることはできないということは事実であり、明白です。しかし、他の方法で神の存在を知ることができないということにはなりません。なぜなら、物理的な実体であっても、私たちが感知したり直接観測したりすることができないにもかかわらず、その存在を確実に知られているものがたくさんあるからです。

 

 例えば、クォークとニュートリノ(いずれも観測不能な極めて小さな粒子)、時空の曲率、恒星内部の核反応の存在がわかっています。そして様々な種の共通祖先や、パンゲア超大陸が過去に存在したこともわかっています。私たちが直接観測できる様々な効果の起因として、それらの存在を推定しています。観測された結果から観測されていない起因の存在までのそのような推論は、科学において非常に基本的なことですし、それは数学のように演繹的な証明によってではなく、哲学者が「最良の説明への推論」と呼ぶものによって起こるのです。

 

 私たちは似たような方法で神を知ることができます。聖パウロが『ローマの信徒への手紙』の中で述べているように、神の性質は「目に見えない」にもかかわらず、その存在は 「被造物を通してはっきり認められます」(1章20節参照)。その「被造物」 には、私たち自身と物理的な宇宙が含まれ、これらの現実はいずれも神を最終的な起因としています。「...人間は、神を求めながら、神を知るための幾つかの『道』を発見します。...神に近づくためのこのような『道』の出発点は被造界、すなわち、物的世界と人間です」(カトリック教会のカテキズム、31項)。

 

神を指し示す2つの事実

 

 物理的な宇宙は、主に2つの方法で神を指し示しています。それは、「宇宙が存在する」という事実と、「宇宙が秩序立っている」という事実です。

 

 よく考えてみましょう。そもそも宇宙はいかなる論理的な必然性によって存在する必要はなかったのではないでしょうか。しかしそれでも存在します。なぜでしょうか。なぜ「宇宙なし」ではないのでしょうか。なぜ「物質なし」「物理的力なし」「時間なし」「空間なし」ではない、ただ空白の「存在なし」ではないのでしょうか。なぜ「何もない」のではなく「何かがある」なのでしょうか。論理的または絶対的な必然性によって存在する必要がなかったのに存在するものには何でも、起因があるはずです。 

 

 そして、なぜ宇宙は秩序、調和、美しさを示すのでしょうか。物理学が発見した非常に微妙で複雑で洗練された数学的法則は言うまでもなく、なぜそこに規則性や決まった形態、類型などが見られるのでしょうか。たとえ宇宙やすべての被造物の存在が自発的であると仮定したとしても、その秩序を何に帰しますか。

 

「これらすべてを主の手が造られた」

 

 実際のところ、科学は、私たちの物理的な宇宙から神の存在を指し示す多くの証拠を提供しているのです。そして最先端の科学は、宇宙だけでなくあらゆる生物において、より複雑で深い「設計」を常に明らかにしています。

 

 「...獣に尋ねてみよ。それはあなたに教えるだろう。

   空の鳥もあなたに告げるだろう。

   あるいは、地に語りかけよ。

   それはあなたに教えるだろう。

   海の魚もあなたに語るだろう。

   これらすべてを主の手が造られたのだと

   知らない者があろうか。」  (ヨブ記12章7~9節)